27

「助けて、助けて・・」

 と呼ぶ微かな譫言に、蓮は意識を戻した。

 彼は実験用の机の間に倒れていた。体じゅう、ウジのような汗が這い出している。豪雨はなおも滝のように窓を撃っている。傍らを見ると、すぐ隣に裕次も倒れている。裕次は何かひどく恐ろしいものを見ているような目を開いているが、視点は虚ろだ。どうしたのか確かめようと、四つん這いになって覗き込んだ蓮は、悲鳴をあげて飛び退き、腰を抜かしていた。裕次の髪がおびだだしい量の血液に浸かっていたのだ。蓮はしばらくがくがく震えていたが、もう一度裕次へ這って、顔を近づけた。血の流出の元は首の横だった。パックリ裂けていて、真っ赤な血がピュウピュウ湧き出ている。心臓はまだ拍動しているようだが、もう譫言も途絶えたようで、全身ぴくりとも動かない。

「ああ、誰がこんなことを? もしかして、おれが?」

 蓮も貧血で再び意識が薄れていた。自分が金槌で頭を叩き割られ、首を斬られ、致死量の出血をしている気分だ。

「本当におれがしたとね? 犯人は、おれね?」

 突然、後ろの扉が開く音がしたので、蓮はまた悲鳴をもらして床に転がった。

「ねえ、ゆうじ、まだあ?」

 美智の声が聞こえた。

「あっ、あれっ? ゆうじ、何で?」

 実験用の机の間に倒れている裕次を見つけ、美智は駆け寄った。

「ねえ、何でこんなとこで寝とると? ねえ、ゆうじ?」

 しゃがんで裕次を揺すった時、彼の頭と肩の下に広がる血の海が美智の目の内に食い込んで来た。美智は名を呼びながら、恋人の頬に触れ、そこから大きく裂けている首へ指を滑らせた。滲み出る血は定期的な勢いを失くし、心臓の拍動が止まったことを示していた。肌熱はすでに低下しだし、その色も黄白色に変化していく。指にまとわりつく生血の匂いが、裕次が美智に遺す形見だった。美智の絶叫が雷鳴や雨音を突き破った。

 蓮が這って叫び狂う美智に近づき、そっと手を差し伸べて細い肩に触れた。

「きゃああ」

 美智は蓮から逃れて裕次の死体にしがみつき、魔物を見る目で振り返った。

「あんたね? こげん恐ろしかことしたとは、あんたね?」

 蓮は四つん這いのまま、涙で視界が曇る目をこじ開けて美智を見つめ、吐き気を押さえながら必死に語った。

「おれの進む道は、二つしか、なかった。いじめに負けて、自殺するか、いじめるやつらを殺して、自分が生き残るか。おれは、死のう、と思っとった。ゆうじたちに性的虐待を受けていた佐藤のぞみと、一緒に死ぬ約束もしとった」

 美智もぽろぽろ涙をこぼしていた。

「あんた、何言うよっと? だったら、何であんたが死なんかったと? あんたが死ねばよかったとよ」

 蓮はシャツの内からブラッククロスを引き出して美智に見せた。

「この黒い十字架は、やつらのせいで死んだ、のぞみからもらったとよ。おれはたぶん、この中にある銀の刃で、ゆうじの首を斬った、と思う。おれは、のぞみの仇を討たんといかんかった。そして、みちを、こいつらから救うためにも、おれは、こうするしかなかった」

 美智の唇が苦しそうにひん曲がった。

「あたしがいつそんなこと頼んだね? あたしはゆうじを愛しとるとよ。返して。あたしのゆうじを、返してよ」

 美智の手が蓮の頬を叩いた。何度も、何度も。

 蓮は痛みよりも悲しみをこらえて荒れ狂う美智を見つめていた。

「今、おれがみちに何を言っても、分かってもらえんやろ。人は感情の生き物やけん、自分の心に反する考えは、認めたくないものだし。だけん、みちは、おれをどげん恨んでもよか」

 蓮は首から黒十字のネックレスを外し、震える指で美智へ差し出し、燃える目で続けた。

「この黒十字の中の刃には、きっと、ゆうじの血が付いている。だけん、ゆうじを愛するみちには、おそらくこれでおれを殺す権利があるとよ。おれは、まだ、やり残したことがあるけど、それが終って、まだ生き残っていたら、梅林寺の下の河原へ行く。おれが、警察に行く前に、みちが、これを使って、そこですべてを終わらせてくれんね? それが、おれの最後の望みやけん」

 美智は黒十字を手に取ろうとはせず、さらに冷たくなっていく裕次に抱きついてむせび泣いた。その細い首に、蓮は血に汚れた鎖をそっと掛けた。












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