26

 玄関から出てきた美智は、ネイビー系のポロシャツに白いミニスカートを着ていた。短い黒髪に四葉模様のヘアピンを着けている。

「何の用よ?」

 美智の声は、分厚い壁の向こうから発せられるように低くくぐもっている。

「今日、吉川ゆうじと会うって、昨日言ってたよね?」

 美智の黒く輝く瞳が、やっと蓮の目を見た。

「それがどうしたと?」

「おれも、ゆうじに会いたいとよ」

「どうして?」

「みちを、彼から、救うために」

 仇を睨むような瞳を、蓮はまっすぐ見つめた。

「あんた、頭がおかしいとじゃない? あたしはゆうじの彼女なのよ」

「ゆうじの、みちを思う心は、愛じゃない」

「何言い出すと? あたしたちのこと、何も知らんやろ?」

「佐藤のぞみって、知っとるやろ? 昨日、ゆうじに体を奪われている時に、彼女は舌を噛み切ったとよ。それで彼女は息ができんようになった。それから、やつらは彼女を袋に詰め込んで、生死の確認もしないで燃やしやがった。そんなやつらと、みちは付き合っていいと? だいたい、ゆうじがみちを本当に愛しとるなら、他の娘とセックスせんやろ?」

 美智は喉に何か詰まったかのように顔をゆがめた。

「あんた、何でそげなありえん話ばしだすとね?」

 蓮は彼女へ手を差し伸べて、指を握ろうとした。だけど美智は後ずさり、両手を背中に隠した。

「嘘だと思うなら、おれをゆうじの所へ連れて行ってくれんね? おれがやつの本性を教えちゃるけん」

 美智は彼から逃れるように離れると、自転車の鍵を外した。それから懐から携帯電話を出して、画面に触れた。

「もしもし、ゆうじ、あたし、今から行くけどね、坂口くんが家に来とるとよ。それでね、彼もゆうじに会いたいって言うとよ。ほんと、せからしかけど、どうする?」

 裕次の返答を聞くと、美智は「うん、分かった」と応じ、蓮を無視して自転車に乗った。

 蓮も自転車に乗り、すぐ後を追いかけた。一人が長門石橋を渡る時、西の空を制覇していた黒い怪物のような雲がほぼ真上に迫り、雷鳴を響かせた。空が怒りの咆哮を発するたびに美智は身を縮めた。

 美智は私服のまま高校へ入って行った。土曜の朝の校内は、部活動をする生徒たちがまばらに見られた。自転車置き場に着いた時、きな臭いバイクの音が近づいて来た。マシンから降りたのは、派手な金のコウモリ模様が胸に入った赤シャツと白いハーフパンツを着た長身の男だった。ヘルメットを外すと、狼に似た裕次の顔が現れた。

 蓮が自転車を留めるのを見て、裕次の片方の眉が吊り上がった。

「おまえ、何でけんすけのチャリに乗っとるとや?」

「これは、おれの自転車やけん」

 強い口調で言おうとしたのに、蓮の声は悲しいほどか細く震えた。

「おれたちがおまえから奪ったものやけん、おれたちのチャリぞ。戦争で勝ったら、土地がもらえる。それと一緒たい。だいたい、おれとみちとのデートを邪魔するなんて、おまえ、本当に殺すぞ」

 怖い顔で睨みつける裕次を蓮が見返していると、その狼顔がぼやけていく。

「だったら、おれが、おまえを、やっつけたら、みちは、おれのもの、なんだね?」

 惨めなくらいしどろもどろになる。

「泣いてるくせに、おかしなこと言うとやね」

 裕次の言葉で蓮は自分の涙を知ったが、それを拭きもせず、まばたきさえしなかった。

「おかしなことなんて、言っとらんよ。この自転車だって、けんすけをやっつけた、戦利品なんやけん」

 睨み合っている時、ぽつぽつ大粒の雨が落ちてきたかと思うと、雷鳴と共に突然滝のような豪雨が襲ってきた。裕次が怯える美智を連れて校舎の中へ避難するのを見て、蓮は自転車の荷籠のタオルの下の金槌を取ってズボンのベルトの内に挟み、シャツで隠してから後を追った。

「みち、ここで待ってて。おれは、このばかと、話をつけてくるけん」

 そう裕次は美智に告げた。

 先に歩き出したのは、蒼白な顔の蓮の方だ。

「化学実験室、へ、行こう。あそこなら、今、誰も、おらんやろし、絶好の、場所、やけん」

「おまえが、一度死んだ場所か。今度こそ、本当に殺しちゃるばい」

「そうしてくれたら、嬉しかよ。おれは、おれを、待ってる、ジャンヌの、とこへ、行けるし、おまえは、今度こそ刑務所暮らしだ。ゆうじ、逃げるなよ」

 処刑場への階段は、上へ行くほど絶壁のように険しく感じられ、精神を病んだ前衛画家の絵のようにゆがんで見えた。

「声を震わせているくせに、何ば言うとや? 足だって、そげん震えて。おまえこそ、逃げるなよ」

 四階には、人影はなかった。

 化学実験室に入ると、いつも通り裕次は蓮の胸ぐらをつかんで締め上げた。まるでそうすることが試合前のお決まりの挨拶であるかのように。息ができなくて意識が朦朧とした時、突然、知らない光景が蓮の脳裏に浮かび上がって来た・・「ドーン」という破壊音が心臓に響いて、目の前の大きな顔の男の頭蓋が割れた。そこから溢れ出る鮮血が、男の飛び出しかけた目になだれ込んだ・・

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 と蓮は息絶え絶えにもらしていた。

「今さら謝ったって、もう遅いぜ」

 裕次は唇の両端を吊り上げて笑う。

 蓮の目から涙がこぼれた。

「ゆうじも、けんすけと、同じ目に、合っちゃうよ。もう、助からんよ。だけど、ゆうじが、悪かとよ。おれにも、ジャンヌにも、みちにも、ひどかこと、しすぎたけん」

 裕次は指の力を緩めて聞いた。

「おまえ、何訳の分らんこと言いよる? けんすけが、どうかしたとか?」

 頭にこびりついて離れない健輔の血にまみれた恐怖の目と同じ剥き出しの眼で、蓮は裕次を見ていた。

「けんすけは、死んだ。おれは、誰が、けんすけを、殺したか、知っとるとよ」

 裕次は眉間に深い縦皺を寄せ、再び蓮を強く締め上げた。

「はあ? 何てや?」

 蓮の目が充血した時、彼の声が重低音に変化した。

「けんすけは死んだんだ。そしておめえも、もうすぐ死ぬ」

 その声色の激変に、裕次の腕の毛が逆立っていた。

「けんすけが死ぬもんか。おれだって、死ぬわけないだろ」

「おめえは、死ななきゃならねえんだ」

「何でや?」

「いじめや虐待に苦悩して自殺する者が、この世にどれだけいると思う? 佐藤のぞみだって舌を噛み切ったじゃねえかい? 彼らみんなが、おめえの死を望んでいるんだよ」

 裕次の眉間の縦皺がさらに深くなり、彼の唇がぷるぷる震えた。

「いったい何を言いたいとや?」

「おめえは、何で坂口れんをいじめる?」

「はあっ? こいつ、いかれちまったとか?」

「答えろよ。 おめえは、何で坂口れんをいじめる?」

「楽しいからに決まっとるやろが」

 裕次は笑ってみせたが、相手の充血した目が気味悪くて頬が途中で引き攣った。

「嘘だね。坂口れんはだませても、このおれは、そうはいかねえぜ」

「はあ? 何が言いてえんだ?」

「おめえは、おめえの好きな川島みちの視線が、おめえじゃなくて、いつもれんを追いかけていたから、れんをターゲットにしやがったんだ」

 裕次の頬に火がついた。

「おまえ、殺す」

 裕次の声が危険の限界値を超えたその時、低すぎる声が蓮へと発せられた。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

 窓を叩く豪雨と雷鳴で、裕次にはその声が聞こえなかった。彼の手が胸ぐらから離れ、鉄のような拳が蓮の鼻から唇を殴った。蓮の脳が揺れ、膝の力が無くなった。裕次の顔が斜めになり遠ざかる。後頭部を硬い何かにぶつけ、脳から鼻へきな臭い液がもれ出ようとするのを感じた。

「楽しかとよ。楽しかとよ」

 実験用の机の間に倒れた蓮の体を、裕次はサッカーボールのように蹴りまくった。三発目がみぞおちに食い込み、蓮は呻き声をもらしながらのたうった。そして次の蹴りが蓮の腰に隠された凶器に激突した。「痛かなあ」と言いながら、蓮のシャツをめくると、ズボンのベルトの内に何かがある。引き出すと、それは重い金槌だった。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

 となおもオンブルが叫び声を上げた。

「何言ってやがる? だいたいこいつは何やあ? こげんとでおれに歯向かうつもりだったとかあ?」

 折れた鼻と裂けた歯茎から出血する蓮の顔を足で踏みながら裕次は聞く。

 オンブルは蓮に呼びかけ続ける。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

 薄れる意識の内で、蓮は裕次が自分を殺そうとしているのを感じた。するとまた、頭の奥から噴き上がるあの声を聞いたのだ。

「死ぬな、殺せ」

 蓮は全身を震わせながら喉を振り絞った。

「ぶらっくろ、さま。この、たましい、を、ぶらっくろさま、に、ささげます」

「こいつ、ほんとに狂ったとやろか?」

 裕次は意識を失くした蓮の腹に跨ってしゃがみ、潰れた鼻を金槌でぺしゃぺしゃ叩いた。ふいに蓮の目が大きく見開いてゆうじを呪縛するように睨んだ。蒼ざめていた蓮の顔は別人のように赤くむくれていた。裕次の直感が身の危険を悟り、右手で金槌を振り上げていた。だけどいざ振り下ろすとなると、恐ろしくて躊躇してしまった。その瞬間、その怪物はバネ仕掛けのように上体を起こし、手に持った光る物を目にも留まらぬ速さで突き出したのだ。裕次には何が起きたのか分からなかった。危険な痛みを覚えた首の横を左手の指で触った。ドクンドクンと生ぬるい液体が噴き出している。目の前の怪物が手に持っている刃物に黒い鞘を被せると、それは黒の十字架に戻った。

 裕次はショックでひくひく震えていた。

「おまえ、何を、した?」

「しゃべらぬ方がいい。死ぬのが早まる」

 地獄の底から湧いて出る怪物の声に、裕次の全身の毛が逆立った。

「死ぬって、何で?」

「頸動脈を切った。以前汝らがここで行った昔の実験の真似事ではない。現実に切ったのだ。その様子だと、すぐに一リットルも二リットルも血が流れ出るだろう。そして汝は、確実に死ぬ」

 裕次はぬるぬるした液体がまとわりつく左手を首から離し、恐る恐る顔の前に出して見入った。震える指から絶望の鮮血が垂れ落ちていた。

「ちくしょうめ」

 裕次は振り上げた右手の金槌を怪物の頭へ叩きつけた。だけどかすりもせず、床に金槌が落ちる音が響いた。

「無駄だ。死ぬのが早まるだけだ」

 見る見る蒼くなる裕次の顔を、怪物の無情な手が押した。裕次は眼前の顔が暗くなって遠ざかるのを見ていた。やがて目の前が真っ暗になったが、その闇の中に恐ろしい鬼の顔が浮かび上がった。鬼が生臭い涎を垂らしながら口を開くと、赤い目と長い牙が暗黒に光った。その牙が首筋へ迫って来ても、裕次は恐怖に震えることしかできなかった。長い牙が首を貫き、脳の奥まで劇痛に痺れた。そして首を咬まれたまま地獄へと引きずり込まれていった。











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