24
坂口蓮が意識を戻した時、彼は自宅の前で自転車にまたがっていた。降りて確かめてみると、卓巳たちに奪われ健輔が使っていた蓮の自転車だ。家の横に留めた時、荷籠に金槌が入っているのに気づいた。手に取ってみると、ぬるぬる嫌な感触だ。ぞっとして荷籠へ戻し、家の明かりがある場所へ歩いて手の平を見た。
「うわっ」
と思わず発していた。
赤い血がべっとり付いている。頭から血の気が引いて倒れそうになるのを、戸口に背を着けて耐えた。胸を見ると、シャツも血まみれだ。
「どうして? どうして?」
曖昧な記憶を掘り起こすとすぐに、健輔の太い指に首を絞められ死んでいく自分の姿が頭に甦った。蓮は玄関の前にへたり込んだ。首に手を当てると、今でも殺意に満ちた指の感触が喉に食い込んでいる。
「なのに、おれは、まだ、生きている? ここは、あの世じゃなかよね? じゃあ、この血は何やろか? おれの血じゃなかごたるけん、けんすけの血なんやろか? ああ、そうだ、おれ、あの呪文を唱えたとよ。オンブルは言った・・それがぶらっくろ様を呼ぶと。でも、呪文を唱えた後のことは・・ああ、けんすけに首を絞められ、意識が薄れていったことしか思い出せねえ。だけど、もしかすると、おれは、大変なことをしでかしたのかもしれん、あああ」
そう自問自答していた時、四十メートルほど先の角を曲がって車のライトが近づいて来た。蓮は隠れるように家の中へ入った。
忍び足で脱衣場へ入り、洗面台で手に着いた血糊を洗い落として、服を脱いだ。血だらけのシャツは丸めて近くにあったビニール袋に入れ、それを持って風呂場へ入った。浴場のフックに袋とブラッククロスを提げ、浴槽の蓋は閉じたまま、髪や顔にまとわりつく血をシャンプーや石鹸を使ってシャワーで洗った。髪の毛がぞっとするほど指に引っかかって抜け落ちた。ジャンヌが残した胸の爪跡の血はすでに固まろうとしていた。そこにはジャンヌが吐き出した悲痛の血も混じり、さらに爪跡の一つには彼女の剥げた爪の一部も食い入っていた。
「この爪は、ジャンヌの形見だ。おれの中に生涯残しとかんといかん」
そう決意しながら胸にシャワーを当てると、あまりもの劇痛に気が変になりそうだった。
「この痛みも、ジャンヌの形見なんだな」
胸底からも重苦しい痛みが突き上げてきて、酸っぱい胃液を吐き出していた。
浴槽の蓋を開け、腰まで湯に浸かった。
擦りガラスの向こうから、ふいに母の声が聞こえた。
「れん? 風呂入っとるとは、れんね?」
蓮は、ぶっきらぼうに聞き返した。
「何ね?」
「こげん遅くまで、何ばしよったと?」
「友だちの家に行っとった」
「夕飯は、どうすると?」
「友だちと食べたけん、いらん」
吐き捨てるように嘘を言う。
母の美和子はぼそぼそ文句をこぼしながら去った。
蓮は湯船を出て、体を拭くと、血の付いたタオルもビニール袋に入れた。ブラッククロスを首に着け、袋を持って裸のまま階段を駆け上がった。部屋に入って、箪笥の奥へ袋を隠し、着る服を捜していた時、突然隣の部屋にいた恵がドアを開けて弟を見た。
「うわっ、エッチ」
と恵は叫びながら、両手の指で目を覆った。
蓮は背を向けたまま、箪笥の引き出しから紫の曼陀羅模様のトランクスを抜き取って、あたふたはいた。
「どっちがエッチね?」
「部屋で素っ裸のあんたがエッチに決まっとるやろが」
「いきなり入って来て、おれの裸を見る姉ちゃんこそエッチやろ?」
「見とらん、見とらん。ほら、目隠ししとろうが」
蓮が黒のティーシャツを出して着ようとした時、恵は目から手を離して入って来た。
「何ね? あんた、何、この背中は?」
棒で叩かれた幾つもの蒼いアザ、カミソリやナイフで切られた数々の傷跡、それにライターで焼かれた火傷や熱湯をかけられた水脹れも蓮の背中や尻のあちこちにある。
蓮はシャツを着てそれを隠し、恵に向き合った。
「おれ、脱いだら凄いとよ」
「ひどかあ。前は? 前も見せんね」
シャツをめくり上げようとする姉の手を蓮はつかんで阻止した。
「エッチ」
「エッチでも変態でも、何と呼んでもよかけん、早よ見せんね」
「前は見せれん」
「何でね?」
「だって、姉ちゃん、背中見たくらいで泣きよるやん。胸も見たら、気絶するやろ?」
「気絶なんかせんけん。ほら、わたし、泣いとらんけん」
恵は腕で涙をぬぐって、無理に笑った。
蓮は顔を左右に微動させた。
「それでも前は見せれん」
「よかけん、見せなさい」
恵がもう一度手を出して力ずくでシャツをめくるのを、弟はぎりぎり制止する。痛みをこらえる彼の顔は、腐った潰れ蜜柑のように苦渋に満ちた。
「前はだめやって。恥ずかしかもん」
「きょうだいやんね。いっちょん恥ずかしくなか」
「だったら、姉ちゃんの胸ば見せてみらんね。そしたらおれも見せちゃるけん」
「何ば言うよっと? わたしのは見せれん」
「そうやろが。おれのだって、見せれん」
「せからしかあ」
恵は蓮のシャツから指を離すと、いきなり自分の服をめくり上げた。ライトブルーのブラジャーが半分見えたところで、蓮が手を伸ばして止めた。
「やめんね。ほんなこつエッチかあ」
「エッチでもよかち言うよろが」
怒声を発しながら、恵はなおも自分の服を上げようとする。
「姉ちゃんのペチャパイ、知っとるけん、もうよか」
恵の目が死の病を告知された患者のように見開いた。
「はあ? あんた、いつ見たとね?」
「見とらんよお。そげなガリガリ、見とうなかち言うよっとたい」
「ちくしょう、あんたが見せんなら、わたしが見せるとよ、ほら」
姉が完全に服をめくり上げる寸前に、蓮は自分のシャツを引き上げていた。
恵は「ああ」ともらしながら、さらに目を剥いて弟の受難に対面した。
開かれた蓮の胸部には、背中と同じような虐待の創痕の他に、縦に十本の深く長い生生しい爪跡が走っていて、触るとすぐにでも新たな鮮血が噴き出しそうだ。そしてそこには血で色を変えた黒の十字架下がっていて、恐ろしい秘密が血生臭く息づいていた。
蒼白な顔で倒れそうになる姉を、蓮は抱き留めて支えていた。やがて我に返った恵も、弟の背に両腕を伸ばして抱きしめていた。
「ああ、れん、わたしは、自分が地獄の底を這いつくばっているなんて思っとった。だけど、本当の地獄を見とるとは、やっぱりあんたやったとやね」
ぶるぶる震えだして離れようとする蓮を、恵は離さなかった。
「姉ちゃん、こんなことしちゃ、いかん」
蓮の声も病的に震えている。
「大丈夫やけん。大丈夫」
恵はぎゅっと抱擁したままだ。
「こんなことしちゃ、姉ちゃんも穢れる」
「言ったでしょう? わたしは、どんな時も、れんの味方だって」
蓮は姉から逃れるのを止めて、ぐったりとなった。だけど姉が彼の髪を撫ぜ始めると、銃殺直前の子供のようにまた震えだした。やがて救いを求めるように聞いた。
「姉ちゃん、秘密は守れるね?」
恵は少し離れて、蓮をじっと見た。
「うん。うん。守るよ」
「絶対に?」
「必ず、守る」
蓮は苦しそうに顔をゆがめた。息がうまくできず、熱病のように額や鼻から汗が滲み出ていた。そしてとうとう、胸奥の病巣の血を嘔吐するように、喘ぎ喘ぎ告白した。
「おれ以上の、本当の地獄を、見たやつが、いるかも」
「何のことね?」
「おれ、そいつを、殺したかも、しれんと」
「えっ?」
「覚えとらんと。覚えとらん、けど、おれ、人を殺したかもしれん。いや、きっと、殺した、はず」
蓮の目から溢れ出した涙が、その真実を訴えていた。そのあまりもの重みに撃たれて、恵も言葉を失い、すすり泣いてしまった。自分のために泣く姉をしばらく見つめた後、蓮は彼女の肩を押して離れた。
「姉ちゃん、だけん、もう、おれには関わらんでくれんね。おれは、ひどい罪人やけん」
恵は腕で涙をぬぐって、瞳を大きく見開いた。
「何言うよっと? こんな時こそ、きょうだい、手を取り合わんと」
「違うとよ。おれには、まだ、やり残したことがあるとよ」
「何が違うと? やり残したことって?」
蓮は胸から血がこびり付いた黒十字を引き出して恵に見せた。
「これは、おれのただ一人の仲間だったクラスメイトがくれた、ブラッククロスって物なんだ。おれやその娘を虐待し続けたやつらに、おれは復讐しなくちゃならねえとよ。それ以外に、おれの生きる道はなかと。おれの好きなもう一人の女の子も、そいつらに騙されとるけん、おれは彼女を救うためにも、どうしてもやらんといかん」
「あんたには、好きな娘がいると?」
蓮は唇を噛みながらうなずいた後、苦い顔で恵を見た。
「ごめん、姉ちゃん、その娘は、姉ちゃんもよく知ってる娘なんよ」
恵は斜め上に目を向けて少し考えた。やがて蓮に湿った瞳を戻した。
「まさか、みちちゃん?」
恵を捨てた男の妹の名を出した。
蓮は「ごめん」とだけ答えた。
「みちちゃんも、その、あんたを虐待してるやつらに騙されとると?」
蓮は黙ってうなずいた。
「それで、あんた、誰かを、殺したって言うと?」
蓮は「たぶん」と答えると、ベッドへ歩いて、その上に置いてあるリモコンを押してテレビをつけた。歌謡番組が映った。チャンネルを変えていくと、ニュース番組が一つだけ放送されていた。
「おれの起こした事件が、報道されるかもしれん」
と言う弟と一緒に、恵は画面に釘付けになった。
爆撃を受けたイスラム教徒の家族が映し出されていた・・右手と右足を失い、壊れたベッドに横たわる十歳くらいの少女の悲しい瞳が救いを求めていた。それは遠い異国の事件なのだが、蓮にはすぐ身近な現実だった。
「誰も誰かを傷つける権利なんて、ないと思うね?」
と蓮は誰かに尋ねていた。
「うん。そうよ。誰も誰かを傷つける権利なんてないよ」
と恵が答えていた。
蓮は恵をまっすぐ見つめた。
「姉ちゃん、おれ、一つだけ、お願いがある」
「何ね?」
梅林寺の横の河原に、のぞみという名の黒猫がいる。まだ、一歳にもなっとらん子猫で、足が折れとるとよ。おれ、のぞみに食べ物持って行っとるとやけど・・姉ちゃん、その子をうちで飼ってくれんね? とても人懐っこくて、いい子やけん。もし、心無い人に捕まって、動物管理センターに連れて行かれたら、ガスで窒息させられて焼かれるけん、どうかお願い」
「あんたが、飼ってやればいいでしょ?」
「おれは、事が終ったら、死ぬか、警察に行くしかないやろ?」
恵は蓮を見返しながら手を取り、ぎゅっと握った。
「あんた、死んだらいかん。わたし、はるくんに裏切られた時、絶望と恨みで自分が首切って死にかけたけん、よく分かると。死んだら、何もかも終わりやけん。わたしだって生きていたら、いつか誰かを救うことができるかもしれん。れんだって、生きていたら、誰かのために、何かができるかもしれんとよ。そうよ、そののぞみって猫のためにも何かができるし、みちちゃんのためにも、いつかきっと、何かできる。だけん、今すぐわたしと警察に行こう。わたし、絶対、あんたを見捨てんけん」
テレビの画面が変わり、イスラム教の国への爆撃命令を待つパイロットに、インタビューのマイクが寄せられた。
「我々は、ただ、上からの命令を待ち、それに従うだけです・・」
若い空軍兵士の言葉に、蓮の目は向けられていた。
「爆撃で死傷する罪なき人々には同情しますが、我々は、プロの兵士として、任務を遂行するだけなのです」
「ほら、これが現実なんだぜ・・」
蓮の声色が突然変わった。それはオンブルの重低音の声だった。彼は恵の手を痛いくらい握り返し、背筋を凍らせる恐ろしい目で睨んだ。
「今、この世界で、多くの人間が殺傷されている。絶望の淵で、復讐のために自爆テロを起こす若者もいる。誰も誰かを殺しちゃいけないと、命の叫びを上げる者だって、異教の侵略者たちに自分が殺される瞬間には、考えを改めるだろうさ」
「えっ?」
恵は何者かに予告なしに頭をひどく殴られたかのように言葉を失くしていた。
目の前の男は、またいつもの弟の声に戻り、もがき逆らうように言う。
「人殺しを正当化する者は誰も、まっ先に自分を殺してもかまわないって、宣言するべきじゃなかとね?」
「ホッホー」
という不気味な笑いが男の中から響いた。再び恵の聞いたことのない低い声が蓮の口から出てくる。
「今、おめえは何を見た? 戦争のプロ、つまり人殺しのプロも、世界じゅうにたくさんいるんだぜ。その裏には、戦争で莫大な利益を得る兵器産業も存在するし、その大企業が政府と太いパイプで繋がっている国だってあるだろうし、そこで働く多くの人々もいるんだぜ・・」
男は恵から手を離し、ブラッククロスを手にしながら続けて言った。
「そして今、おめえは復讐の免罪符、黒十字を手にしてるんだ。プロの兵士たちが人々を殺害していることを正当と言うのなら、自殺の代わりに武器を取るおめえの方が、よっぽどまともじゃねえかい?」
「あんた、誰?」
と震える声で恵が尋ねた。
「ホッホー」
とオンブルは頬を吊り上げて笑った。
恵は蓮の肩を両手でつかむと、悪魔を見る目で睨み、自分も恐怖に震えながら揺さぶった。
「れん、どうしたと? あんた、正気じゃなかとよ。ああ、かわいそうなれん」
恵はまたぽろぽろ涙をこぼしながら男を抱きしめた。汚水にぼこぼこと湧く腐敗のあぶくのような笑いが途切れるまで、必死にしがみついていた。
しばらくして蓮の真剣な声が恵の耳に熱い息吹をぶつけた。
「姉ちゃん、一日だけ、見守ってくれんね。おれは明日の日暮れまでには警察に行く。だけん、一日だけ、待ってくれ。明日、おれがやるべきことすべて、決着をつけるけん。人は人生に一度は、命を懸けて戦わないといかん時がある。おれは、たとえこの身も心も砕け散っても、やらないかんことがあるとよ」
健輔殺害の事件は、テレビのニュースでは報道されなかった。
その頃、健輔の遺体は、夜にはほとんど人が通らない田圃路の橋の下に、足だけ川の水に浸かって隠れていた。深まりゆく夜の底で、潰された頭や顔に昆虫類や多足類が這い、脳から滲み出る体液を舐めた。その小さな命たちを、また別の光る眼が狙っていた。八日月が西に傾いていびつに膨れ、星々は尖りつつあった。数知れぬカエルたちの大合唱が重密な夜風を揺るがし、闇はぬにゃぬにゃ小躍りしていた。
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