23

 暗い鉄工所跡の汚れた窓から卓巳の家を見張り、裕次と健輔が出て来るのを蓮は待ち続けた。重い金槌をズボンのベルトの内に隠し、胸のブラッククロスに手を当てて。

 しばらくすると、脇の小道を向こうから歩いて来る一人の影が見えた。宮川家と地蔵小屋の間を通る老婆を、街灯が醜く浮き上がらせた。病気を匂わせる痩せた手足は鶏を連想させた。両手に何か持っている。体が不自由な様子で、小さな歩幅で、前傾姿勢だ。頭が重すぎるのか、前に転ぶまいと、歩く勢いが加速している。窓の視界から彼女が消えた後、バサッという音が聞こえた。耳を澄ませると、「あーあー」か細い呻きが聞き取れた。蓮は顔をしかめ、シャッターを上げて、小路へ出た。案の定、老婆が倒れている。傍らへ進んで、うつ伏せの細い腕を取り、引っ張り上げた。立ち上がる時、老婆は「はははー」と奇妙な笑いをもらした。左目の横から出血している。

「ケガしとる。ハンカチか何か、持っとらんですか?」

 と蓮は聞いた。

 老婆は信じられないくらいゆっくりと地面のバッグを開け、ハンカチを取り出した。

 蓮がそれを傷口に当てた時、突然オンブルの声が蓮の頭に響いた。

「隠れろ」

 隣の玄関が開いている。

 蓮は近くの家の塀の陰へと身を隠した。裕次と健輔が玄関から出て、自転車の鍵を外した。

 目前の老婆は、片手でバッグと買い物袋を持ち、もう一方の手で傷口のハンカチを押さえながら、よろよろ歩き出した。また倒れそうな足取りに、蓮は思わず手を貸しそうになった。だけどオンブルの言葉に背を押され、彼女と逆方向へ駆けだしたのだ。

「急がねえと、見失っちまうぜ」

 小路を駆け上がり、十字路で左右を見た。左右を去って行く自転車のうち、左の方がゆっくり遠ざかっていて、容易に追いつけそうだ。テニスのトレーニングで鍛えた快足で、その背を負った。五分もせずに近づいていた。のんびりとペダルを漕ぐその熊のような背中は健輔だった。ターゲットを確認すると、走る足ががたがた震えだした。それでも、足音を小さくするため忍者のような摺り足で追跡した。

 田畑に挟まれた暗い小路に入って五十メートルほど進んだ時、オンブルの声が響いた。

「ここなら人目につかねえ。さあ、追いつくんだ」

 蓮がいっきに加速すると、不穏な足音に気づいた健輔が驚いて振り返った。健輔はブレーキをかけ、自転車を止めた。

 蓮も彼のすぐ横で止まり、息を整えた。

「けんすけ?」

 と確認する声が闇に震えた。

 相手もその巨体に不似合いな怯えた声で聞き返した。

「誰?」

 そこは田畑を流れる小川に架かる橋の上だった。街灯は二十メートル以上離れている。数知れぬカエルの鳴き声が、闇の淵から湧きあがっていた。

 西に傾いていく八日月に照らされた健輔を蓮が凝視すると、闇の顔が畳のように広く感じられた。

「おれが誰か、知らんね?」

「れん? 何だ、れんか? 何しに来た?」

 健輔の声がいつもの邪険な調子に戻った。

 蓮は笑おうとしたが、頬が引き攣るばかりだ。

 突然、重低音の不気味な声が蓮の口から発せられた。

「おれの自転車を返してもらおうと思ってね」

「何だあ? このチャリは、おれがたくみにもらったもんばい」

「おれの物を、おめえらが奪ったんだろうが」

「何だ、その変な口のきき方は? 殺すぞ」

 醜くゆがんだ闇の巨顔がぼやけ、自分が泣いていることを蓮は感じた。息もできず胸が苦しいのに、オンブルの声が胸底から湧き出てくる。

「殺す? おめえに本当にそんな度胸があるのかい? おめえが殺すと言うなら、これは戦争だ。おめえが仕掛けたんだぜ。だから、おめえ、おれに殺されても、地獄で文句は言いっこなしだぜ」

 蓮の声色の豹変に、健輔は身震いしていた。

「ちぇっ、本当に気味の悪いやろうだ。おれはもう帰りたかとよ。もう行くけん」

 漕ぎだそうとする自転車の前を塞ぎ、ハンドルを手で押さえてオンブルは問う。

「一つ聞きてえんだ、けんすけ」

「ん?」

「おめえは、どうして坂口れんをいじめる?」

 その時、一台の車のライトが細い田圃路に入って来て二人を照らした。橋の欄干ぎりぎりに寄って、二人は車が過ぎるのを待った。健輔は蓮の質問などなかったかのように、車の後を追って行こうとする。

 オンブルはまたもハンドルの前に躍り出て、もう一度問う。

「なあ、どうして坂口れんをいじめるんだ?」

「ちぇっ、知らんばい。しいて言うなら、付き合いばい、付き合い」

 オンブルの恐ろしく低い声が闇に響いた。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

オンブルは逃げようとするハンドルを片手で押さえ、もう一方の手で胸の黒十字を握りしめていた。

 健輔は頬を引き攣らせながらも、ハンドルの手を怪力で振り払った。

「何ぶつぶつ言っとるとや? そこをどかんと、本当に殺すばい」

「れん、どうした? おれが教えた呪文を早く唱えろ。もう後戻りはできねえんだ。黙ってたら、逆に殺されるぞ。さあ、おめえの心の沸点は何度だい?」

 動き出す自転車にオンブルは体をぶつけ、さらに進路を妨害する。

 蓮は頭の中が真っ白で言葉が出てこない。

 健輔がついに切れた。自転車を降りると、それを持ち上げて蓮の方へ振り回したのだ。タイヤが胸に当たり、蓮は硬いアスファルトへ吹き飛ばされた。腰と背を強打した直後、後頭部がガツンと音を発した。

「おまえが悪いんだぜ」

 健輔は目を吊り上げて、倒れた蓮へ自転車を投げつけた。それが蓮の肋骨を強襲した。

 オンブルが蓮の体からはみ出しかけながら絶叫した。

「さあ、応えるんだ。おめえの心の沸点は何度だい?」

 何かしゃべりかけた蓮の腹に、自転車を払いのけた健輔の岩のような尻がドスンと食い込んだ。あお向けの蓮に馬乗りになった健輔は、両手を伸ばして太い指で首を絞めた。顔が赤黒くなっていく蓮に、オンブルの叫びがなおも響いていた。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

 痺れる頭の奥底から、別の何ものかの声も聞こえた。

「死ぬな、殺せ」

 意識が消滅する寸前に、蓮は両手で黒十字を握りしめ、微かではあるがその言葉を絞り出していた。

「ぶ、らっく、ろ、さ、ま。この、たま、しいを、ぶらっくろ、さま、に、ささ、げ、ます」

 蓮が動かなくなったことに気づいて、健輔は我に返り、ぶるぶる震えながら首を絞めていた指を離した。

「お、おい、れん、死んだとか?」

 八日月に照らされた蓮の顔は、目を見開いたまま、妖怪のように醜くひん曲がって凝固している。「ひっ」ともらしながら健輔は蓮から離れ、路に尻もちをついた。

「お、おまえが、悪いっちゃけんね。お、おれのせいじゃ、なか。ちくしょう、早よ、逃げんと」

 健輔は暗がりを傍らの自転車へ這い、立ち上がろうとして、何やら恐ろしい気配に振り返った。倒れていた男が、健輔の前にぬうっと立ち上がったのだ。

「れん、死んどらんかった。ああ、ほんとによかったあ」

 健輔は涙をこぼしながら安堵した。涙のせいで、相手の異様な形相も、振り上げられた金槌も、闇に滲んでよく見えなかった。黒い影がすうっと近づいて来た直後、ドーンという破壊音が健輔の頭蓋に響いた。顔の内部を何かが流れ落ちるのを覚えた。その後で劇痛に包まれたが、身悶えることも、呻き声をもらすことさえ、健輔はもうできないのだった。暗い道に大の字に倒れたことも知覚できなかった。地獄へ崩れ落ちた彼の頭部へ、無情の鉄槌が追撃した。ドーンという破壊音だけが、健輔の脳に響いた。三度目の衝撃で頭蓋が割れた。

 重低音の恐ろしい声が闇に響いた。

「皆の前でれんのパンツを剥いだ罪」

 断罪の怒槌が、砕けた頭蓋を脳に突き刺した。

「れんの弁当を奪い、雑草を食べさせた罰」

 追撃の連打が頭蓋を脳にさらに食い込ませた。

「バッタやクモも食べさせた」

 ドーン、ドーンと、頭蓋が脳を潰していく音を、暗い血の叫びとともに健輔は聴いていた。

「携帯を奪い、自転車も奪い、手の指を折り、足の爪も剥いだ」

 鉄槌は罪人の眼球をもグシャッと潰した。

「頸動脈を切ったとだまし、れんの心臓を止めた」

 もう一方の眼球も一瞬で潰れた。

「付き合いだと? それでもたくみとゆうじの悪事に加担した汝の罪は重い」

 顔面中央への連打が鼻も陥没させた。

「佐藤のぞみの心も体もぐちゃぐちゃにした罪」

 怒槌は口にも撃ち込まれ、唇を潰し、前歯を折った。

「舌を噛んだ彼女を助けず、焼いた罰」

 追撃が他の歯も撃ち砕いた。

 それでもドーン、ドーンと響く怒りは止まらないのだ。元の顔が判別できなくなり生命が途絶えるまで、健輔のぐしゃぐしゃになった脳は、その恐ろしく悲しい破壊音を聴き続けた。












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