22
暗い鉄工所に一人、胸から出した血染めの十字架を握りしめ、蓮は仰向けのマネキン人形のように横たわっていた。
突然、彼の口から低い声が噴き出した。
「ジャンヌの言う通り、おれたちには、あいつらを殺す権利があるんだぜ」
血走った目が見開き、バネ仕掛けのように上体が起きた。
「誰ね?」
身震いしながら闇を見まわし、もう一度聞く。
「誰?」
その問いに自身の口で答えるのは、普段の彼の声と明らかに違う重低音だ。
「おれか? おれの名はオンブル。簡単に言うと、おめえの心の奥底の、もう一人のおめえさ」
「何てえ? ちっとも簡単じゃないやん。これは夢? おれは、夢を見とると?」
「夢なもんか。もっとも、おめえに夢を見させるくらい、おれには朝めし前だけどな」
そう言うと、オンブルと名乗った何ものかは、蓮の口で「ホッホー」と笑った。その奇怪な笑い声に合わせるように、窓から覗くゆがんだ月が映し出す彼の影が伸縮自在に震えた。
蓮の体じゅうの毛が逆立ち、同じように震えている。
「やっぱり夢だ」
オンブルの恐ろしい声が、なおも蓮の胸底から湧き出てくる。
「おめえは、自分の心の中さえ、何にも知らねえんだなあ。今一度言うぜ。おれは、おめえの心の奥底の、もう一人のおめえさ。人は誰も、心の深層に、意識できない影の心を秘めているんだ。そして人生の重大な危機に瀕した時、それが命を救うこともあるんだぜ。それで今、おれの出番ってわけさ。だって、おめえはもう、身も心も傷つきすぎている。おれが現れなきゃ、もう自殺しか歩む道がないんだからな」
頭を微小な虫たちが這っている感じがして、額を手の甲でぬぐうと、脂汗にまみれた。
「何言ってるのか、分からないよ。だいたい何でおまえ、急に現れやがった?」
「ほら、今、おめえが握っている、その血染めの十字架だよ。それがおめえの心の奥に眠っている、強大なぶらっくろ様を呼び起こすんだ。おれはその橋渡し役にもなれるんだぜ」
「ぶらっくろ? ああ、ああ、やっぱり分からねえ。この十字架が『ブラッククロス』というのはジャンヌに聞いたけど、おれの心にもそれがあるの?」
「ちぇっ、おめえは本当にダメダメじゃねえか。いいか、分かろうとすることが大事なんだ。心の底から感じるんだ。じゃなきゃ、死んだジャンヌが浮ばれないぜ。ジャンヌだけじゃねえ。おめえが恋する川島みちだって同じだ。ゆうじはそのうち彼女に飽きるだろう。そしたらみちも、三人の餌食になって、ジャンヌと同じ道をたどることになるんだぜ。おめえ、それでいいのかい?」
「そんなの・・いかん、いかん。おれは、あいつらを、絶対許さん」
「ホッホー」
とオンブルはまた地響きのような笑い声をあげ、深く響く声で言う。
「ゆうじの言葉を思い出してみな。やつは『人間の歴史は、差別の歴史だ』と言いやがった。いいこと言うじゃねえか。まさに真実だ。文明の陰に奴隷があり、彼らは家畜のようにつながれ、鞭打たれ、逆らえば殺され、貴族や皇族たちに仕えてきた。そして今、おめえがやつらから受けているこのいじめだ。いじめるやつらは、自分たちの気持ちを満足させることしか考えねえ。『いじめられているやつも悪いのだ』なんて、勝手な理屈も作りやがる。ゆうじの言う通り、人間の歴史が差別の歴史ならば、武士や貴族が平気で平民や奴隷を斬り捨てたように、誰かを不幸にしても自分が幸福になろうとするのが人間の本性ということだ。そしてたとえ建前だとしても人民平等を謳うこの現代社会では、あいつらにおめえを踏みつける権利があるのなら、おめえにもやつらを踏みつける権利があるんだぜ」
オンブルの眼は暗がりに怪しく光っていた。ひび割れた窓から差し込む八日月のいびつな明かりを反射するものを目ざとく見つけ、彼は身震いしながら立ち上がった。奥の作業台へ黒い体をぐにゃりぬにゃり伸ばすように進むと、獲物に焦点を定めるようにそれを見つめた。
「ホッホー」
光っているのは、片方が太い、作業用の古い金槌だった。手に取ると、何か異質なものが詰まっているようにずっしり重い。
「そういやたくみもこう言ってたよな・・人間も虫けらも、同等の価値しかない、と・・」
自分の口から発せられる、オンブルの低いゆっくりとした口調に、今や蓮も熱心に耳を傾けていた。
「たくみはおめえのことを虫けら扱いしたいのだろうがよ・・やつもいいこと言うじゃねえか・・虫けらにとっちゃ自分たちの方が大事だなんて。まったくそれも真理だね。たとえば、カエルに神様がいるとしたら、それはどんな姿だと思う?」
オンブルの質問に、蓮は真剣に答えた。
「カエルの神さま? だったら、人間の姿をしているわけないね。きっとカエルの姿をしてるとじゃなかね?」
「ホッホー」
満足げな笑いが闇の鉄工所跡を揺るがせた。
「そうだぜ。人間の方が進化しているとしても、だから価値があるとは限らねえのさ。人間が作った宗教は、それぞれの宗教が自分たちの神こそ正しいなんて言い争い、戦争まで起こしやがるけどよ、そこには明白な嘘が秘められてんだぜ。だって、もし死後の世界があるとしたら、そこにいる魂は、人間のものであると思うかい? そりゃあ、ちょっとは人間の魂もあるかもしれんけど、大部分は、人間以外の生命の魂に違いねえじゃねえかい? だって、同じ生命なんだし、個体数は虫けらたちの方が遙かに多いんだぜ。ところでおめえはさ、虫けらを含めてすべての生命が同じ価値を持っているという、たくみの考えをどう思うよ?」
「よく分からないよ」
と蓮は正直に答えた。
オンブルはやはり「ホッホー」と笑って、金槌の太い方で近くの錆びた鉄柱をガンッと叩いた。
「やっぱりおめえはダメダメじゃねえか。ちゃんと考えなきゃいけねえぜ。生きるか死ぬかの土壇場にいるんだからよ、全身全霊で感じ取り、一千億の脳細胞を爆裂させて考えろや。おれに言わせりゃな、すべての生命が同価値などとほざくたくみの考えも、まだまだ甘い考えなんだぜ。だって、命あるものと、ないものとの比較が、不十分じゃねえかい? 何だ? やっぱりこれも分からねえのかい? たとえばこの金槌だ・・」
オンブルは金槌で鉄柱を今度はガンッ、ガンッ、二回叩いた。
「こいつがやつらを殺せるとしたら、こいつにだってやつらに劣らぬ価値があると思わねえかい? おまえ、学校で何習った? 人間も金槌も、ただ陽子や電子の数が違うだけの、原子の集合体じゃねえか。人間も金槌も、ただの原子の集まりで、同じ価値しかないというのが、人間が発見した究極の英知ってもんだろ? じゃねえなら、何で人間は爆弾で人間を破壊し続ける? 何でどの国も爆弾なんぞ持ちたがる? おめえもやつらに本当に勝ちたいのならば、このことを思い知らなきゃだめだ・・生命体も無機物も、すべてのものが同等の価値を持っていると。それは言い換えれば、すべてのものが同等の無価値だとも言える。そして、人間の歴史は、自分に都合のよい価値を見出すために、あらゆるものを差別して来た空言なんだ」
蓮はオンブルの言葉を繰り返した。
「すべてのものが同等の価値があるっていうことは、すべてのものは同等の無価値だってこと」
「ホッホー」
ひび割れた窓の八日月がいびつな明かりを増した時、蓮から錆びた作業台へ伸びた影が密度を濃くし、ぐにゃりぬにゃりねじくれて狂喜した。
「そうだぜ。そうだぜ。正義の名のもとに剣や爆弾が多くの人の命を奪ってきたように、ほら、この金槌だって、やつらを倒せるんだぜ。この金槌だって、やつらだって、同じ価値だし、同じ無価値なんだ。いじめられ、仲間を死なされたおめえには、もう道は二つしか残っちゃいねえ。やつらの責め苦に負けて自殺するか、やつらを殺して生き延びるか。そして、この血に染まった黒十字を手にしたおめえの行く道は、もはやただ一つだ。死ぬな、殺せ。先に宣戦布告をしてきたのはやつらなんだ。だから、『死ぬな、殺せ』・・これがおれたちの今の旗印なんだぜ。それにおめえには、おめえの好きな川島みちを、やつらから救い出さなきゃいけねえんだろ? だから、『死ぬな、殺せ』だ」
「死ぬな、殺せ」
と蓮も追随した。
「ホッホー」
黒い影がさらに北東へと伸び、蓮を呑み込むようにみるみる肥大化した。
「死ぬな、殺せ」
と揺れる影も重低音で輪唱した。
「どうすりゃいいんだい?」
蓮の体は、地震に揺れる石像のように背筋を凍らせて震えていた。その体内へ、巨大な影がどっと入り込んだ。
「簡単なことさ。おれの指示通りに動けばいい。そして、大事に至った時には、おれがこう質問する。『おめえの心の沸点は何度だい?』って。それがぶらっくろ様を、おめえの心の奥底から呼び出すサインだ。その時、おめえはただ、ぶらっくろ様を呼びさえすればいいんだ。『ぶらっくろ様、この魂をぶらっくろ様に捧げます』ってな。いいか、忘れるんじゃねえぜ。その呪文が、おめえに最強の力を与えるんだからな。おめえの中に潜在している強大な力を」
蓮は危険な目で闇を見ながら、その呪文をぶつぶつ繰り返していた。
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