16
ジャンヌの家は、梅林寺の西の河原を南へ、長門石橋をくぐってさらに水天宮の下の河原を越え、そこから堤を上がって、さらに南へ五百メートルくらいにあった。築五年ほどの二階建ての家だ。『佐藤義男』の表札がある玄関を開け、ジャンヌは蓮の手を引いて招き入れた。
「ただいまあ」
とジャンヌがドアを閉めながら言うと、家の奥から怒涛の足音が迫り来たので、蓮は慌てて彼女の手を振りほどいた。
先を争う音の主は、白い毛長の大型犬と、茶色の短毛の中型犬、そして黒い短毛の小型犬だった。
「リーくん、ただいま。ドーちゃんも、ムーちゃんも、お迎え、ありがとね。ほら、お客さんだよ」
ジャンヌがしゃがんで抱きながら撫ぜると、犬たちは尻尾に気持ちを込め、キスで出迎える。犬が苦手な蓮は、ジャンヌの背に隠れ、ひたすら逃げた。
「犬がいるなんて、聞いてないよ」
「あら、このこたちは、家族よ」
ジャンヌは犬たちと居間へ入って行き、蓮に手招きした。
濃紺系の半袖シャツに茶色のハーフパンツを着た口髭の男が、居間のソファーに座っていた。白い大型犬が彼の足元へ歩いて伏せた。
ジャンヌが蓮を紹介した。
「パパ、同級生の坂口くんよ。わたしが彼の指を痛めちゃったけん、連れてきたと。パパは、医師免許を持っとっとよね?」
ジャンヌの父の佐藤義男は目を丸くして娘を見た。
「持っとらん。持っとたら、こげな生活しとらんやろ?」
「何でえ? 昔、聞いた覚えあるよ。治療のプロだって言ってたやん」
「ばか、わたしがたまーに治療しとるとは、犬とか猫ばい。だけど獣医の免許も持っとらんし、治療のまね事みたいなもんたい」
「それでもよかけん、坂口くんの指を治してくれんね。一生のお願いやけん」
両手を合わせてジャンヌは父に頼み込む。
「やれやれ、のぞみの一生のお願いには勝てんなあ。最新の戦闘機で武装しても勝てんばい」
義男は蓮を見て、立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと指を見せてんね」
蓮は犬が怖くて近づけない。離れたまま、震える手を差し出した。
「前から痛めていたもので、娘さんのせいじゃないですから、気にせんでよかですよ」
義男は険しい目で近づいた。
「ありゃあ、こりゃ、どげんしたあ? 痛いやろ?」
蓮は手を引っ込めた。
「大丈夫です。舐めときゃ治ります」
義男は隣の部屋から薬箱を持って来て、蓮の両手の折れた指を包帯で固定した。
「絶対病院へ行かんといかんよ。手術せんといかんかもしれん。今はとりあえず、動かしちゃいかん」
蓮が「ありがとうございます」と頭を下げると、義男は目じりにたくさんの皺を作った。
「さっきからずっと気になっとるとやけど、二人ともえらい濡れとるみたいやね。雨に濡れたと?」
ジャンヌは作り笑いを見せた。
「そう、雨に濡れたとよ。わたし、着替えてくるけん。坂口くんは、どうする?」
「おれは、よかよ」
蓮は手を振って断った。
ジャンヌは近くにあったタオルで蓮の髪や体を拭いてから、部屋を出た。
残された二人は、相手をちらちら窺うだけで、しばらく言葉はなかった。
やがて義男が我慢できない感じで聞いた。
「ところできみは、のぞみと、どういう関係ね?」
探りの目に圧せられながら、蓮は答えた。
「クラスメイトですが、初めて言葉を交わしたのは、つい最近です」
「そうね? のぞみは、クラスでは、どんな生徒ね?」
「とてもまじめで、おとなしくて、目立たない人です」
「だけど最近、変わったことはないやろか?」
「えっ?」
義男の目力が増した。
「近頃、おかしい感じなんだよ。わたしの勘違いならいいけど、何か悩みを抱えているように見えるとよ。きみは、何か知らんやろか?」
「ああ、実は・・」
蜜柑色のワンピースに着替えたジャンヌが、足早に戻って来たので、蓮は口を閉ざした。
「パパ、わたしの悪口、言ってたでしょう?」
彼女は父を睨みながら、棚からコップとココアを出した。
義男は首を振る。
「言っとらんけん」
ジャンヌはココアを二つのコップに入れ、ポットの湯を注いで、父と蓮に渡し、顔を曇らせながら言った。
「うちのパパ、ママに逃げられてから、頭がおかしいけん、何言われても、気にせんでね」
その言葉に義男は口髭をひくひく動かし、頬を膨らませた。
「のぞみ、それは間違っとるばい。わたしの頭がおかしくなったけん、ママはおまえの兄さんを連れて出て行ったんじゃないか」
ジャンヌは冷めた目で父を見る。
「ああ、そうだった。パパがノイローゼになって、ママにDVするし、職場からママの嫌いな犬を何匹も連れて来るし、わたしだって出て行きたかったわ」
「だけど、のぞみは犬たちと仲良しになれた。のぞみはやさしいけんね」
「人間は裏切るけど、犬は裏切らんけん。だけど、パパは、罪もない犬や猫を殺すのが仕事なのよ」
義男は眉間に悲しみを重ねた縦皺を作って、ソファーに戻り、蓮にも長椅子に座るよう勧めた。
椅子を濡らしたくないので、蓮は首を振った。立ったまま、熱いココアを一口、二口飲んで、義男に聞いた。
「市の職員なんですか?」
義男もココアを一口飲んだ。それから少し潤んだ目を蓮に向けた。
「わたしね? わたしは動物管理センターに勤務しとるとよ。そこはね、最近は殺処分ゼロを目指すようになったけど、これまで数え切れぬ犬や猫を殺してきた地獄だよ。頭がおかしくなるのが普通じゃないね? そうじゃないやつらは、心がイカレちまってるとよ。やつらは、犬猫よりも、人間が偉いと言う。人間の方が優れていると言う。だけん、簡単に殺してきたんだ。でもね、本当にそうだと思うね? のぞみが言うように、人間は裏切るけど、犬は裏切らないよ。犬と家族のように付き合っていたら、それが分かるけんね。犬猫の方が、人間より優れているところもあるとよ。ただ、人間がずるく、強いだけなんだよ。ただ人間が強いけん、何の罪もない犬猫を殺すとよ。わたしはもう、たくさんの命を、この手でガス室へ送り、殺してきたとよ。この指がボタンを押すだけで、かわいい目をした子供たちも、人に尽くしてきた年寄りたちも、みんなみんな息ができなくて、もがき苦しみ、ガス室に爪跡を残すんだ。そして生死不明のまま、焼かれてしまった。わたしはね、どんなに神に懺悔しても、決して許されない罪を犯してきたとよ。いつか大きな罰を受けると思う。ばってん、仕方なかやろ? わたしがやらなかったとしても、他の誰かがボタンを押さなくちゃいかんとやったけん。それがこの国の現実だったとやけん。ねえ、坂口くん、きみはどう思うね?」
狂おしい瞳に見つめられ、連は言葉を詰まらせながら返した。
「えっ? おれは、強い者が、弱い者を、迫害するのは、よくない、と思います」
そう言って、慌ててココアを飲んだので、胸に少しこぼしてしまった。
ジャンヌが不機嫌な声で口を出した。
「ちょっと、パパ、そんな話するけん、頭がおかしいって言われるんでしょ?」
義男は「ああ」と応じてココアを飲んだが、動揺して胸にこぼしていた。
それを娘はさげすむように見ていた。
「あらあら、パパは、犬よりだらしないんだから」
蓮はジャンヌに見つけられないように、自分の胸のココアを袖で拭いた。それから慎重にカップに口を付けた。
ジャンヌは父に刺すような目を向けた。
「ねえ、パパ、もしもね・・」
言いかけて、視線を蓮に移した。
蓮はココアをふうふう冷ましながら飲んでいる。
「もしも、何ね?」
と義男が促す。
ジャンヌは蓮を見たまま言った。
「もしも、わたしも坂口くんも、誰かに迫害を受けていたら、どうする?」
蓮の口から胸へとココアがこぼれ落ちた。
ジャンヌは急いでティッシュ箱から数枚抜いて、蓮へ駆け寄った。汚れたシャツを拭く手が震えた。
「ごめんね。変なこと言っちゃって」
少し潤んだ声も震えている。
「ちくしょう」
と義男がもらした。娘に何か訴えるように自分の胸の染みを指さしている。
その仕草を無視したまま、ジャンヌはつくろう。
「パパ、もしもの話やけん」
義男は真顔になって娘を見つめた。
「もしも、のぞみがそうだったら、わたしはその相手を許さんよ」
「キモいわあ。でも、だったら、パパは、犬や猫を殺したように、わたしを迫害した人間たちを、殺してくれると?」
震える言葉を受けて、義男は愕然とした。
「急に何ば言い出す? 誰も、誰かを、殺しちゃいかんやろ?」
「殺したじゃない。パパは、殺したじゃない」
娘の目に狂気が光った。
「人が、人を、殺したら、犯罪だよ」
首を振るジャンヌの声が病的にうわずる。
「だったら、イスラムのテロに対して、キリスト教の国が、どうして正義の名のもとに報復したと? 数え切れない人を殺して、どうして許されると? この国だって、そりゃあとてもひどいことをしたんだろうけど、原子爆弾を落とされて、罪もない多くの人が焼かれたとよ。そういうことが許されるのなら、わたしが生きていくために、わたしを迫害するやつらを殺しても、許されるやろもん?」
義男の眉が曇り、少し上げた右手の先が小刻みに震えた。
「のぞみ、いったい何のこと、言うよっと? いったい何があったと? 誰かを殺すくらいなら、いっそ、わたしを殺してくれ。誰かを殺すことがどんなに辛く悲しいことか、わたしを殺して思い知ってくれ。ああ、わたしが罪もない命をむごい殺し方で奪ってきたけん、おまえはそんなこと考えるようになったとか? だったら、すぐにわたしはこの仕事を辞めて首をくくるけん、のぞみだけは、どんなことがあっても、誰かを犠牲にして生きていこうなんて思わないでくれ」
義男は悲壮な目で訴えたが、娘の剥き出しの瞳はそれ以上に錯乱していた。
「だったら、わたしと誰かのどっちかが犠牲にならなくちゃいけない時、パパは、わたしの方が犠牲になれって言うとやね? 自分はたくさんの犬猫を犠牲にして生き残ってきたくせに、わたしにはそんな生き方するなって言うとやね?」
義男は顔を真っ赤にして、娘を殴りそうな勢いで立った。だけど唇を噛みしめると、娘の前にどっと崩れ落ちたのだ。そして、隣りに立つ蓮のことは気にもかけず、娘の足元にひざまずいて、ぶるぶる震える手で娘の両手をつかむと、自分の首へと引いた。
「ああ、のぞみ、わたしが悪かったけん、わたしば殺してくれんね。さあ、この手で、この首ば絞めてくれんね。わたしの今までの許されない罪に、おまえが罰をあたえてくれんね。さあ、さあ、早く」
首に当てさせた娘の両手の指の上から、義男は自分の指を絡ませ、歯を食いしばって力を込めた。
父の首の血管へ自分の指が食い込むのを見ていたジャンヌの目に涙が溢れ出し、やがてゆがんだ唇から悲鳴がほとばしった。娘は指を離そうともがくが、父の指の力は本気だった。
狂った親子に驚いた蓮が、間に割って入った。
「やめてください。やめてください」
渾身の力で引き離した。
ジャンヌが泣きながらひざまずいて、父の手を両手で握りしめた。
「ごめんなさい、パパ。ごめんなさい。パパは、わたしの生活のために、ノイローゼになってまで、あんな嫌な仕事をしてくれたとよね? 分かってるとよ。分かってると。それに、犠牲となった弱者たちだって、それを何とも思わない無慈悲なやつに殺されるよりも、せめてパパみたいに、頭がおかしくなるくらい心を痛めてくれる人間に殺された方がよかったと思う。わたし、パパの味方になるって決めたとやけん、この家に残ったとよ。それなのに、パパを傷つけることばかり言って、ごめんなさい」
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