14

 日曜の朝も、蓮は筑後川の河原を走っていた。空色のティーシャツにグレーのハーフパンツ姿で、湿っぽい向かい風を裂いて走った。

 梅林寺の西の河原に、ジャンヌが希望を抱いて立っていた。今日もピンクのポロシャツが似合っている。昨日の薄いピンクより鮮やかなブライトピンクのシャツで、やはり紺のジーンズを穿いている。

 走って来る男子に気づくと、娘は片手を振って「れんくーん」と大声で呼んだ。蓮も両手を振って「ジャンヌ」と返した。雲の切れ間から差し込む朝の光が二人を輝かせていた。

 夜半から明け方まで降った雨で出来た水溜りを避けながら、蓮は川の流れに逆らってサイクリングロードを走った。彼が近づくと、臆病な水鳥たちが川辺から遠ざかった。

「雨ダンダンが、降ってたもんね」

 とジャンヌは黒猫に話しかけていた。

 子猫の希望は「ミャア」と高い声で応えた。

「怖かったねえ。わたしたちには、いつも雨弾弾が降るとかな? でも、れんくんが来たよ。よかったねえ」

 息を切らして立ち止まった蓮にジャンヌは歩み寄り、黒猫を差し出した。

 蓮の胸に抱かれた希望は、エメラルドの目でじっと彼の顔を観察しながら、背伸びするように右前足を差し出した。

「ほら、にゃぜてくれって、よ」

 とジャンヌがその仕草を解説した。

「のぞみはかわいいにゃあ」

 右手で全身を撫ぜると、希望は喉を鳴らしながら蓮の左手の折れた指を舐めた。

「ほんと? ほんとに、のぞみは、かわいい?」

 と嬉しそうにジャンヌは聞く。

「うん、天使のようにかわいい」

「うふふ」

 ジャンヌの桃頬に笑くぼが輝いた。

「あっ、虹だ」

 蓮が指さす空をジャンヌが振り返ると、鉄橋の向こう、大河を遠く渡って七色のアーチが架かっている。

「うわあ」

 ジャンヌは水辺へと歩いて急なコンクリを下り、濡れているのも気にせず水際に腰を下ろした。

 蓮もそろりそろり後を追うと、希望が水を怖がりながらもついて来て彼の肩へ昇った。

「お尻、濡れちゃうよ。滑って川に落ちるかも」

「さっきまで、雨に濡れてたけん、平気」

「ジャンヌは、早朝からここにいたとやね?」

 その問いに、娘は笑っただけだった。

 蓮もハーフパンツの臀部を湿らせながら隣に座った。

 彼らの足元の水はゴミで汚されていたが、その醜悪を前方に広がる波の輝きが超越していた。

 虹はみるみる濃くなっていった。数え切れぬ波に散れ散れ映った虹を、水鳥たちがゆっくり渡っている。それを見ていた娘の瞳から涙が溢れた。

「わたし、ねじられて、壊されとるとよ」

 なんて突然言う。

「うん」

「嘘みたいに、リアルに」

 熱い頬が蓮の肩にもたれると、その栗色のくせっ毛を希望が舐めた。

「うん」

 ジャンヌと蓮の指が求め合い、もつれ合い、ほどけなくなった。

「わたし、死にたいな」

 右前方の鉄橋を、虹が生まれるどこか別の世界へ向かうように列車が大河を渡るのを見やりながら、蓮は誘いかけた。

「一緒に、死ぬ?」

 虹の影に揺れる水鳥を見つめる瞳が、大きく見開いた。

「本当?」

 蓮は彼女の横顔を見て、それか空を渡る虹へと視線を移した。

「夏休みになったら、一緒に行く? あの虹の向うへ。誰も知らない山奥の深い森に包まれて、一緒に自然に還る?」

 ジャンヌも遠い虹を見上げた。それからまた大河に呑まれた七色に目を戻した。

「わたし、夏休みまで生きる。それまで絶対、死なんけん」

 彼女は胸の内から黒い鎖を引き出しながら、蓮を愛おしそうに見つめた。鎖に引かれて黒色の十字架が出てきた。首から鎖を外し、蓮の胸元へ差し出す。蓮の肩で寝ていた黒猫が「ミャア」と鳴き、怪しい何かに瞳を光らせた。

「これは、何?」

 手の平ほどの十字架を蓮が握ると、裕次に折られた指がぴくぴく震えた。

「ブラッククロス」

 そう言うジャンヌの声も震え、蓮を見つめる瞳は濡れていた。

「ぶらっくろす?」

「ブラッククロス・・黒十字。これさえ身に着けていれば、あんたも、やつらと戦える。やつらに、報復できるとよ」

 娘の頬に光る涙を、蓮は黒十字を待たない方の指で拭いた。

「ブラッククロス・・これがどうして?」

 触れた頬が若い弾性力で膨らみ、一瞬笑くぼを生じた後、紅潮した。

「これを売った人は、十字軍の話をしてた。それから、アメリカで起きたテロの事も。アメリカがテロの報復に、イスラム過激派に対して戦争を起こし、正義の名のもとに、たくさんの命を奪ったと。このブラッククロスは、きっと、復讐の免罪符みたいなものなのよ。それに、これは理不尽な虐待に苦悩する者の、強力な武器にもなるの。ほら、木製なのに重いでしょ? 中に銀の刃物が隠されとるとよ」

 蓮の頬も火照っていた。

「何で、これを、おれに?」

 潤んだ瞳が絡み合った。

「あんたには、これを身に着ける資格があるとやけん。だって、あんただって、やつらのいじめに身も心も傷だらけで、死にたい、って思っとるとでしょう? でも、死ぬくらいなら、たとえ刑務所に入ることになるとしても、やつらを殺して、あんたが生き残る方がましじゃない? 自分が生き延びるためだから、それも正当防衛だよ。博愛主義のキリスト教徒が多い国だって、テロに対抗してたくさんの人を殺すとよ。わたしより、あんたの方が、きっとこれをうまく扱える。あんただって、これさえ身に着けていれば、やつらに復讐できるとよ」

 ジャンヌは黒い鎖を手に取り、川へ落ちないように踏んばりながら、それを蓮の首へと持っていった。蓮の肩の黒猫が、前足を閃かせてそれを奪おうとする。腰を浮かせた娘の胸が蓮の顔に迫って、豊潤なピンクが鼻先に触れた。蓮がとっさに横を向くと、彼の左頬が驚くほど大きな乳房に食い込んでいた。子猫はギラギラ目を光らせて、揺れる鎖を爪や牙で狩ろうとしている。それに負けずにネックレスを着けるのに娘は没頭している。蓮の耳にピンクのポロシャツ越しに柔肌の血潮が伝わり、ジャンヌの鼓動が急加速して聞こえてきた。それは彼女だけのものではなく、自分の生きている証しでもあるように蓮には感じられた。彼の鼓動も共鳴して高鳴った。「生きたい、生きたい」と、熱い血が二人を巡っていた。それはとても儚いものなのに、永遠のものでもある気がした。ひどくか弱いものなのに、絶対的に強いものでもあるのだ。

 ブラッククロスが蓮に着けられ、生命の嵐が頬から離れた時、彼の両腕が衝動的に動いていた。彼の心の奥底に眠る何ものかが、もっと永遠であるものを、もっと絶対的に強いものを、たぎるように求めたのだ。蓮は無言のまま、娘を抱きしめ、豊満な胸に耳を押しつけていた。その耳に火がついて、頬へと燃え広がった。驚いたジャンヌの顔も同じように炎上した。胸も手足も、熱い血潮がドクドク激流した。ジャンヌは悲鳴をもらし、性犯罪者を突き放し、男の折れた指を烈しく握りしめていた。男の卒倒しそうな叫びが響き、驚いた黒猫が飛び去った。自分がつかむ男の人差し指があり得ない方向に折れ曲がったのに気付くと、ジャンヌの目から眼球が飛び出しそうになった。二人は体勢を崩し、足を滑らせ、叫び声をあげながらゴミが浮ぶ川の内へ落ち込んでいった。

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