13
蓮が帰宅した時、姉の恵は、両親と普段通り食事を始めていた。
「めぐみ、その首に巻いとるとは何ね?」
と母の美和子が聞いた。
恵は首に巻いた青いスカーフを指で触った。
「ああ、これ、ケガしたけん、傷が見えんように巻いとると」
頬と目元が赤みを帯びた。
父の五郎が心配の目を見開いた。
「首をケガって、何でね?」
「よそ見して歩いてたら、木の枝にぶつけたとよ。病院で手当てしたけん、大丈夫よ」
恵は部屋に入って来た弟に目を向けながらそう言うと、急いで夕食を食べた。
蓮はご飯と味噌汁をテーブルに持って来て、姉の隣で食べ始めた。
美和子が娘に話しかける。
「傷は大きかとね?」
「ううん」
恵は首を振りながら、箸を持たない方の親指と人差し指で『ちょっとだけ』のサインを示した。
「嫁入り前の大事な体なんやけんね。はるくんは、知っとるとね?」
「知っとるよ。はるくんが病院に連れて行ってくれたとやけん」
ご飯やおかずを見ながら恵は答える。頬が少しだけいびつに震えた。
五郎が息子の顔を見て言う。
「れんの方がひどい顔をしとるじゃないか。またケンカしたとか?」
それを聞いた美和子が、眉をひそめた。
「あら、あんた、今頃気づいたと? このアザはもう何日も前にできてたとに。体育の授業でぶつかったとよね?」
「体育でラグビーをやっとるけん」
と蓮は父を見て補足し、頬に笑みを浮かべた。姉と違って嘘に慣れている。
五郎がしかめっ面になる。
「れんは、よう顔にアザばつくるなあ」
坂口家の二階は、姉弟の二部屋だ。
真夜中、連が眠る隣の部屋からすすり泣きがもれた。ほんの微かな泣き声だったし、しばらくすると降りだした雨音にまぎれたが、蓮の心の内に潜むあの男は聞き逃さなかった。泣き声が二時間以上続いた時、その男は悲眼を見開いた。足音を忍ばせ、音がせぬよう戸を開き、姉の部屋を見つめた。真っ暗闇の中で、姉は蒲団をかぶっている。むせび泣く声がもれている。息を殺して忍び込み、差し足で近づいて、震える蒲団を見下ろした。やがてそおっとベッドに上がり、隣に身を横たえた。
異常を察した恵が、ベッドライトを点けながら上体を起こした。蒲団で涙を拭いて見ると、そこにいたのは弟だ。
「れん、どうしたと? あっ」
その男は、いきなり恵の痩せた胸に顔を埋めながら抱きついた。
「ば、ばかあ。わたしたち、こげんこと、しちゃいかんとよ」
突き放そうとするが、しがみついて離れない。
「れん、わたしたち、きょうだいなんだからね。あ、だめ、だめ」
左右に振られる男の顔が、鼓動乱れ打つ姉の胸を押して、姉弟はもつれ、蒲団の底へ落ち込んだ。
「大声出すよ。大声出して、お父さん、呼ぶけんね」
そう訴える姉の声は、弟にさえ聞き取れぬくらいくぐもっている。
「絶対だめ。ねえ、れん・・れん? あれっ、れん、どうしたと?」
ようやく恵は気づいた。弟は彼女の胸で嗚咽しているのだ。白いキャミソールが涙で濡れている。
「あんた、どうした? ねえ、何があったと?」
弟のやわらかな髪に指を触れ、そっと叩いた。
「メグミンが、あんまり辛そうだから」
と泣き声が答えた。
「メグミンって、わたしのこと? れん、一緒に泣いてくれると?」
「おいら、れんじゃないよ。ピエールっていうんだ」
「ピエール? あんた、おかしくなっちゃったと? 近頃、なんだか辛いことを隠してる感じだったけど、とうとうイカレちゃった?」
「メグミン、もう泣かなくていいの? ものすごく悲しいはずなのに」
「ばか、あんたが心配で、それどころじゃなくなったよ」
ピエールの顔が恵の胸から離れた。彼の指が恵の手を捜し、両手の指と指をつなぎ合わせた。ベッドライトの仄かな明かりの中で、見開いた目と目が見つめ合い、心をさぐり合った。
「だめだよ」
とピエールは指に力を込めて言う。
その人相も声色も、いつもの弟のものとは違い、幼い子供の匂いがする。
「何がだめなの?」
「心が壊れたなら、もっともっと泣かなくちゃ」
「もう、いっぱい、泣いたけん」
「まだまだ足りないよ。この部屋が涙で溢れて、この町が涙に沈んでも、ぜんぜん足りない。だって、永遠だと思っていたものが、こっぱみじんに砕けたんだろ? 一番信じていた人に裏切られて、胸が張り裂け、体じゅうの血潮が抜けてしまったんだろ? おいらには分かるんだ」
「だけど、あんたに泣けと言われたら、よけいに泣けないわ」
「ふん、だったら、泣かないでいいよ。おいらが代わりに泣いちゃうから。明日からメグミンが生きていけるように、おいらが死ぬまで泣き続けるから。世界が涙の洪水で滅びるくらい、おいら、泣いてあげるよ」
ピエールはそう言うと、もう一度恵の胸に顔を埋めて抱きついた。そして恵の分まで慟哭した。
一階で眠る両親に泣き声を聞かれぬよう、恵は蒲団を頭まで被せた。そしてライトを消し、弟をやさしく抱いて髪を撫ぜた。闇の底へ沈みながら、いつのまにか一緒に悶え泣いていた。時がたつと、恵の方がピエールの胸に顔を当てて泣きじゃくっていた。
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