12

「みち、みち、大丈夫?」

 人目も気にせず、蓮は美智を夢中で抱きしめ、支えていた。

 やがて蒼ざめていた美智の頬に赤みが差し、黒い瞳が見開いた。「あっ」と驚きの声がもれた。蓮が腕を緩めると、美智は離れながら声をうわずらせる。

「れんくん、ごめんなさい」

「何があったと?」

「あたしのお兄ちゃんがね、あんたのお姉さんを裏切ったと」

 黒く光る瞳が、蓮の奥底まで覗き込む。

「裏切ったって?」

「めぐみさんが、お兄ちゃんの部屋に入った時、お兄ちゃんは、新しい彼女と、嫌らしいことをしてたとよ」

「嫌らしいこと?」

 蓮の耳元に口を寄せて、美智はささやいた。

「だからあ、裸でエッチなこと、してたみたいなの」

「裸でエッチ?」

 蓮がそう口走ってしまったので、近くの人たちが二人を見た。

 美智は顔を真っ赤にして蓮の頭を手の平で叩いた。

「サイテー、何てこと言うと?」

「ごめんなさい」

 美智は蓮の腕を引っ張って、好奇の視線を避けるように病室へと歩いた。

「それでね、怒っためぐみさんは、叩き割ったビンで、自分の首を刺してしまったと。あたし、急いで止めたけん、大事にはならんかったけど、ごめんね、全部、あたしのお兄ちゃんが悪かとよ」

 三〇六号室に入り、四つあるベッドの右手前のカーテンを開いた。だけど、そこのベッドに人影はなかった。

「あれっ?」

 通路へ出て、近くのナースステーションに坂口恵のことを尋ねた。

 若い女性看護師が答えた。

「止めたんですけど、もう大丈夫だからどうしても帰るって言って、出て行ったんですよ」

「本当に大丈夫なんですか?」

 と蓮が問うと、看護師は険しい表情になった。

「幸い動脈は傷ついていませんが、しばらく安静にさせて、何かあったら、すぐに連絡してください」


 宵闇の帰り道、蓮は長門石橋を渡って、美智の家のすぐ近くまで一緒に歩いた。

「めぐみさん、きっと大丈夫じゃなかよ。体だけじゃなく、心も壊れとるけん。早よ、帰ったほうがよかよ」

 と美智が言う。

「この道が近道やけん」

「嘘つき。自転車もなかとに、どんだけ遠回りね」

「おれにとっちゃ、近道やけん」

 すぐそこにある細い指へ、蓮はそっと手を伸ばした。その手を握ることが出来たら、井戸の水に触れたヘレン・ケラーのように、人生が変わると思った。

 だけど美智の非難の瞳が蓮を地の果てまで突き離したのだ。

「意味分からん」

 引っ込めた手をポケットに入れ、蓮は街灯の下に立ち止まって、美智を見つめた。

 美智も歩みを止め、見つめ返す。

「どうして、止まると?」

 美智の瞳の輝きに、蓮は息もできず胸を焦がしていた。

「みちの目を、見たくて」

 と言ってしまった自分に驚き、蓮は先に歩き出していた。

 美智は黙ってついてきた。

 川島家が見える最後の角で立ち止まった蓮に、

「さよなら」

 と硬い声で美智は言った。

「さよなら」

 と蓮も返した。

 街灯に叩かれた二人の影が重なって震えていた。

 影が二つに分かれ、その一つが長く伸びていくのを蓮は見送っていた。

 だけど影の伸長がふいに止まり、美智が駆け戻って来たのだ。そして蓮を呑み込む寸前で止まると、彼をぎゅっと抱きしめるように見つめた。

 熱い息が彼の胸を直撃した。

「ねえ、あたし、近頃、ずっと、あんたのことばかり、考えとると」

 美智の頬の狂おしいほてりが、蓮の頬にも伝わった。

 蓮も何か言い返そうと唇を震わせた。だけどただ見つめ返すのが精いっぱいだった。

 やがて彼を燃やしていた美智のまなざしが、弱々しく潤んだ。

 蓮は手を差し出し、今度こそ美智の指を取ろうとした。その手を握ることが出来たら、コペルニクスやガリレオが天と地をひっくり返したように、世界が変わると思った。

 だけど美智は臆病な猫のように後ずさり、上目使いで蓮を見ながら言ったのだ。

「ごめん、今の言葉、忘れて」

 美智は唇を噛んでうつむき、逃げるように家へ駆け込んで行った。

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