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 その小さな店は、商店街を少し外れた裏通りの、古く細いビルの二階にあった。幾度も辺りを行き来して、ジャンヌはやっと見つけた。暗く狭く急な階段横の壁は血生臭いしみだらけで、それらが妖怪となって襲いかかって来そうで、足を震わせながら上った。入り口横の看板には、『黒魔術逸品』の文字と、黒の十字架の紋章があった。

 様々な形の紫のランプに照らされて、ペンダントやピアス、指輪、髪飾り、ロウソク、花瓶、壁飾り、絵画、像、服、帽子、仮面など、どれも神秘的で面妖な品ばかり狭い店内を賑していたが、客はジャンヌ以外誰もいなかった。黒の十字架は、ペンダントの並びにたくさんあった。どれを手に取って見ても、『復讐』サイトで掘り当てた物ではない。

 ジャンヌは奥へと歩き、古い椅子に座っている店主と思われる老婆に告げた。

「ブラッククロスが欲しいとですけど」

「えっ? 何と言った?」

 白髪の老婆は皺だらけの顔をゆがませた。

「ネットで見たんです。ブラッククロスがこの店にあるって」

 そう訴えても、老婆は眉をひそめて首をかしげる。

「すまんのお。わしは耳が遠くてな」

 ジャンヌは老婆の耳に口を寄せて大声で言った。

「ブラッククロスを、ください」

 すると老婆は肥大化した満月のように見開いた目を娘に注ぎ、しわがれ声をもらした。

「ぶらっくろ?」

「ブラッククロス、です」

「ぶらっくろ・・いいや、あれは、売れない」

「だからあ、ブラッククロス、ですってえ」

 ジャンヌが顔を真っ赤にして声を張り上げると、老婆は額に深すぎる縦皺を刻んで首を振った。

「あれは、危険ばい。だから、あんたみたいな小娘には、売れないんじゃ」

 奈落を匂わせるその皺にぞっとして、ジャンヌは後ずさっていた。それでも胸を焦がす狂おしい恨みを吐き出した。

「わたしは、一度、川に身を沈めて死んだ身なんです。だからもう、何も怖くないとです。いつまた死んでもよかとやけど、死ぬ前に、どうしても許せないやつらがおるとです」

 老婆は「ほう」と言うと、目をギラギラ剥きだして睨みつけた。

「すると、あんたは、悪魔に心を渡したいと、本気で思ってるんだね?」

 その血走った目に、ジャンヌの背骨は凍りつき、膝をがくがくさせながらさらに後退していた。その老婆こそが、ジャンヌの心を喰らう魔女に見える。背筋を走る戦慄が身の危険を叫び、気づいたら背を向け、いつのまにか逃げるように店を出ていた。崩れそうなひびだらけの階段を転げ落ちそうになりながら降りきり、裏通りを出て、池町川沿いの小道を、涙に曇る夕陽へ向かった。だけど五分も歩かぬうちに、胸を引き裂く悲しみと怒りに衝き動かされ、その怪しい店へと駆け戻っていたのだ。

「死ぬ決心をしてるとに、何が怖いと? あいつらを殺せるなら、悪魔にだって心を渡すとよ」

 そう自分に言い聞かせながら、再び古く細いビルの階段に踏み入った。

 先ほどよりも闇の密度を増した階段には明かりも無く、夜行性の肉食獣のように瞳を見開かないとつまづいてしまいそうだった。

 紅紫のランプに照らされた薄暗い店内を、意を決し、もう一度奥まで歩いた。さっき来た時とは、何かが違う。外と店内では時間の流れ方も空気の重さも違う感じだ。

「あれっ?」

 古びた椅子に座っていたのは、顎鬚を異様に伸ばした顔の長い中年の男だった。立てた髪の上から髭の先まで、自分の顔なら縦に三個入るとジャンヌは思った。

「あのう、ここにいた、お婆ちゃんは?」

 深い井戸の底から見つめてくるような男の瞳に、ランプの光が鬱鬱と反射した。薄くて大きな唇から重低音の声が発せられた。

「婆さんから聞いている・・一度死んだという娘が、またここを訪ねて来たら、これを渡せと」

 男の瞳が三日月のように笑った。差し出された手には、黒い鎖の付いた、縦二十センチほどの黒の十字架が握られていた。

 ジャンヌの手は震え、それを受け取ることができなかった。

「本当に、これを身に着けていれば、復讐が許されるとですか?」

 と聞く声も、ロウソクの炎のように危うく揺れた。

 男の目が険しく尖った。

「二千年も昔、『汝の敵を愛せ』と聖者は言った」

 ジャンヌは首をひねった。

「えっ? 急に、何の話・・」

 顔の長い男は審判を下すぞというふうに首を振り、説明を続けた。

「『復讐するは我にあり』という言葉も聖者は伝えている・・神が人に代わって天罰を与えてくれるという意味だ。それらの言葉は、当時差別に苦しんでいた人々には、救いだったのだろう。逆らえば、殺されるのだからね。だけど、後に聖書の教えを受け継いだ信者たちは、それらの言葉を忠実に守ったと思うかね? 中世の時代には、彼らキリスト教徒たちは、十字軍の名のもとに、異教徒たちと血みどろの戦いを繰り広げた。アラーの神を信じる者たちにとって、十字軍は侵略者たちという意味になった。そして近年だって、旅客機でビルなどに突っ込むテロが起こった時、キリスト教徒たちは、相手を愛し、許したと思うかね? イエスの教えの中で最も深き罪『復讐』は、人間の手で行われなかったって、思うかね? 正義の名のもとに、罪なき人の血は流れなかったと、思うかね? 聖者の教えには、歴史とともに、深い影ができていったんだよ。そしてこのブラッククロスは、その深淵から生まれた物だ。さあ、手に取ってみなさい」

 男は身を乗り出し、黒十字を娘の胸元へ差し出した。

 ジャンヌは身を引きながらも、恐々それを指に取っていた。手触りは木なのに、不自然に重い。なぜだか涙が溢れ、止められない。

 娘の心を見透かしたように男が言う。

「中に銀の刃物が隠されている。昔、吸血鬼さえも殺めた銀の刃だ。だから、心して身に着けないといけないよ。ところで、お金は準備しているのかい?」

 ジャンヌは涙も拭かず、貯金から全額引き出した紙幣が入った封筒を、バッグの中から出して渡した。

 男は中身を数えて確認すると、娘の震える指から黒十字を取って、その鎖を彼女の首にかけながら、釘を刺した。

「危険物だから、この店で買ったことも、誰にも言っちゃいけないよ」

 ジャンヌは立ち上がって、背を向けた。だけど、店を出る前に振り返り、もう一度、問いただした。

「本当ですね? 本当に、これで復讐が許されるとですね?」

 だけど男は、異様に伸ばした顎鬚を指で撫ぜると、怖い顔をして首を横に振ったのだ。

「よく聞きなさい・・黒十字がその悪魔の力を発揮するには、複数の人間の血を必要とするんだ。その血の怒りと悲しみが、黒十字の所有者に、復讐の恐ろしい力を与える。だけどね、社会がそれを許すかどうかは別問題なんだ。社会に許されないのが嫌なら、今すぐに、黒十字は捨てたほうがいい」

 恐ろしく暗い階段を降りながら、ジャンヌは闇に問いかけていた。

「複数の人間の血? その血の怒りと悲しみ?」

 その命題に共鳴するかのように、彼女の胸の黒十字が震撼した。

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