8
土曜の朝、蓮は冷蔵庫にソーセージを見つけ、それをポケットに入れ、家から西へニ十分ほど走り、筑後川の河原へ降りた。緑の半袖ポロシャツに、制服の黒のスラックスを身に着け、テニスシューズを履いていた。河川敷では大河沿いのサイクリングロードを北へニ十分走って、長門石橋の下を通り、梅林寺の前に着いた。前方の鉄橋を、上りの列車が渡って行くのが見えた。ここは数日前の宵、クラスメイトの女子が自殺未遂をした場所だ。川辺に立つと、あの時は暗くて観取しづらかった消波ブロックが川岸に近い波間にたくさん見えた。ブロックの間の水面には、捨てられたペットボトルや空き缶やカップ麺の容器などのゴミが揺れていた。視線を前方へ移していくと、曇り空を映した水波は、数知れぬ清色の光を乱反射させ、絶え間なく流れている。それらは新しい玩具を見つけ出した子供たちのように瞳を輝かせ、風と水と陽が融合する輝きを謳い続けている。
「あの時、ここで死にそこなったジャンヌを見なかったなら、おれはちゃんと死ねたはず・・」
と蓮は大河の流れにつぶやいていた。
「それにしてもジャンヌのやつ、何で猫なんかのために死の底から戻って来やがった? 何で?」
そう問いかけた時、梅林寺の下の樹々の方からかん高い子猫の呼ぶ声が聞こえた。振り返って草土を捜すと、痩せた黒猫が折れた足を引きずりながら走ってくる。川面を泳いでいた水鳥たちの一羽が「ピーヨ」と警戒の鳴きを発し、その仲間たちが岸から離れて行く。
「のぞみ」
自殺未遂のクラスメイトが与えた名を呼ぶと、黒い猫娘は歓喜の声をさらに張り上げ、蓮の足に飛びついて、胸まで駆け昇った。「うわっ」と面喰いながらも蓮が抱きとめると、希望はグールグール喉を鳴らしながら手を舐めた。
「舐めんなよ。ばか、ばか、おまえは何でそげん生きたかとや? 何で?」
魚肉ソーセージを蓮がポケットから出すと、子猫のエメラルドグリーンの目が異常に見開いて光った。おねだりの声も一層高揚した。蓮が歯と指を使って中身を剥き出しにすると、希望は待ちきれないとソーセージをペロペロ舐め、やがて世界で一等の宝物を手に入れたかのように、ミャウミャウ歓喜をもらしながらかぶりついた。
「のぞみ、何でこげん幸せそうなん? こげん痩せて、足も折れとるみたいなのに、ひとりぼっちなのに、なんでこげん嬉しそうに食べとると? 何でこげんひどか世の中で、おまえは生きたかと?」
蓮は希望を抱いたまま、水中に急な角度で沈んでいく川辺のコンクリの上に腰を下ろした。彼の膝の上で子猫はごちそうを全部食べてしまった。すると満足げに目を閉じ、喉鳴らしで世界平和を奏でた。朝光さざめく大河に、彼女はゆらゆらくるまれて寝た。あまたの生物たちの魂塊のような波の大群が、蓮に延々押し寄せて来る。雲の切れ間から陽が降り注ぐと、波の想いが煌びやかに燃え上がった。
「のぞみ、ここは生と死の境界線なんだよ・・」
黒猫の全身を指で撫ぜながら、蓮はゴミで汚された暗い川の内へと続く深淵を見ていた。黄泉の底がいつでも彼を待っていた。希望は薄目を開いて「ミャア」と応え、尻尾を振ると、すぐにまた目を閉じ、喉を鳴らした。
「おまえはどうしても生きてみたいやけど、まだこんなに小さかけん、カラスやトンビに狙われるかもしれんねえ」
蓮がそう希望に話しかけた時、ふいに後ろから娘の声が響いた。
「だけど一番怖いのは・・」
驚いて振り返ると、すぐそこに薄ピンクの半袖シャツの佐藤希望が立っていた。桃のように艶めくふくよかな頬にニキビがほんのり赤い。髪は栗色で天然の巻き毛が肩まで伸びている。髪と似た色の瞳が壊れそうなくらい潤んで蓮を見ている。
「あっ、ジャンヌ」
黒猫が蓮の膝を離れ、嬉し鳴きをもらしながらジャンヌのジーンズの足元にじゃれついた。
ジャンヌも嬉しさで顔をくしゃくしゃにした。手提げ袋を足元に置いて、子猫を高く抱きあげる。希望と目と目を覗き合いながら、ジャンヌは言った。
「一番怖いのはね、人間なんだ。やけんね、人間に対してこげん簡単に甘えちゃだめなんよ、のぞみは。他の猫たちのように、人間が近づいたら、警戒して逃げなくちゃ。もし、人間に捕まって、動物管理センターに連れて行かれたら、他の捨てられ猫たちと一緒にガス室でもがき苦しんだ後、生死の確認もされずに焼却されるんだよ。昔、アウシュビッツという所で行われていた虐殺以上の残酷を、この国はやっとるとやけん」
蓮は立ち上がって、真顔になった娘を見た。
「ジャンヌは物知りなんやね」
娘は眉をひそめて首を振った。
「わたしのパパが、それをやっとるとよ。それで、パパは、精神を病んでしまっとると」
そう沈んだ声で蓮に告げると、子猫に向きなおって、
「のぞみも、パパに、殺される運命なのかもしれんとよ」
「ジャンヌは、どうしてここに来たと?」
蓮の問いに、ジャンヌは当惑気に見返した。
「あんたこそ、なぜ?」
蓮は希望に食べさせたソーセージの袋を見せた。
「のぞみに食い物を持って来たと」
蓮の頬が熱を帯びた。
「わたしも・・わたしも、そう」
とジャンヌは言って、手提げ袋から猫缶を出して見せた。
彼女の顔もいつの間にか赤かった。
「もう、いっぱい、食べたよ」
ピンクのシャツを着たジャンヌの胸に顔を埋めて喉を鳴らす黒猫を見ながら、蓮はそう言った。そしてジャンヌの胸のあまりもの大きさに、「うわっ」ともらしてしまった。
「うわっ、て、何よ?」
「す、すげえ、でけえ・・」
と口走った蓮は、火照る頬を両手で押さえていた。
「えっ? 何? 何のこと?」
ジャンヌの瞳が大きく見開いた。
「えっ? あっ、そ、その、猫の耳が、すごくでかいな、って、あはは・・」
「笑ってごまかすのが得意みたいね、ピエール」
とジャンヌは言う。
蓮は首をひねった。
「ピエールって?」
「だって、わたしはジャンヌで、あんたはピエールなんでしょ? ここであんた、そう言ったじゃない」
「ピエール? おれがそう言ったと?」
「覚えとらんと? 変な人やね」
ジャンヌは悲しい影を瞳に宿して笑った。
「ジャンヌがここでひどく泣きだしたことまで覚えとるとやけど、何か知らんけど、そこから記憶がないとよ。それがずっと気になっていて、ジャンヌに聞きたかったと・・それから、おれたち、何してたとやろ?」
娘は蓮を呑み込むように見つめた。
「あのさあ、一つだけ聞いていいかな?」
「一つだけって?」
恥ずかしそうに瞳を伏せ、言葉を詰まらせながら娘は問う。
「あのさ、れんくん、は、好きな、人、おると?」
川波の煌めきに視線を移して蓮は答えた。
「最近、気になるこは、おる」
「そのこって?」
娘は瞳を上げたが、すぐにうつむいた。
「クラスメイト」
と蓮は教えた。
「クラスメイト?」
娘はもう一度瞳を上げ、蓮を見つめた。
「うん。だけど、最近、初めてしゃべったとよ。あ、あれっ、何で泣くと?」
ジャンヌの頬には笑くぼが輝いているのに、そこへ大粒の涙が流れ落ちている。
「泣いとらん。泣いとらんよお。ほら、笑ってるでしょ?」
蓮は指を伸ばして、熟した桃の頬にそっと触れた。そして温かい涙の結晶をすくい上げた。それからそれを自分の胸に押し当てた。
「れんくん?」
「ジャンヌの笑顔の欠片を、記念におれの胸にしまっておくよ。ジャンヌは笑ったら、この春の陽射しのようにかわいいよ。ジャンヌは泣いたらひどいブサイクになるけん、笑っとったほうがよか」
ジャンヌは顔が引き攣るほど笑顔になって、何度もうなずいた。
「あんたがそう言うなら、一生笑顔でいようかな」
「そうしたら、きっと、いいことあるけん。ジャンヌの笑顔は、誰かを幸せにする笑顔やけん」
蓮はもう一度指を差し出して、娘の止まらない涙を集めた。すると黒猫の希望も細い体をいっぱいに伸ばして、そのしょっぱい幸せをペロペロ舐めた。
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