5

 宮川卓巳と吉川裕次に前後を挟まれて、巨漢の田沼健輔が蓮を肩に担ぎ、階段を四階まで上がった。化学実験室に入ると、内側から鍵をかけ、奥の準備室の台の上に意識のない蓮を横たえた。そして湯沸かし器に水を入れ、スイッチオンにした。それから蓮の両手両足、胸や腹を黒いビニールテープで台に縛り付けた後、健輔がバケツの水を顔にぶっかけた。それでも死んだように動かない蓮の首に指を当て、卓巳が頸動脈の拍動を確認した。

「まだ生きているけどよ、ゆうじ、おまえ、そのうち本当にこいつを殴り殺して、刑務所暮らしになっちまうぜ」

 そう眉をひそめながら言って、卓巳もバケツの水を蓮に叩きつけた。

 三回目で蓮は目覚めた。

 卓巳が悪魔の笑顔で声をかけた。

「やっと、お目覚めかい?」

台にあお向けの蓮は、目を動かして周りを見た。そして自分を見下ろす三人を認識した。だけど自分がどこにいるのか分からない。起き上がろうともがいたが、手足も胸も腹も拘束され、身動きできない。

「おまえはゆうじを殴ったってな? そして、殺せって、言ったってな? おれの大事なダチを殴ったんだ。望み通り、死刑にしてあげるよ」

 そう卓巳は言いながら銀に光るカミソリの刃を見せ、蓮の両目もビニールテープで塞いだ。それから蓮の首の横に刃を当て、こう続けた。

ここに頸動脈が脈打っている。こいつをこのカミソリで切って、血が固まらないよう注意しとけば、血が流れ続け、確実に死ぬ。たいして痛みは感じない」

 卓巳は刃を離し、蓮の唇もビニールテープで遮断した。

「これでもう、命乞いさえできねえな。さあ、死刑、執行だ」

 頸動脈に鋭利な痛みが走るのを感じて、蓮は呻き声をもらしていた。数秒後に彼は、首の痛みから何かが流れ落ちて行くのを確かに知覚した。迫り来る死の戦慄に震えながら、彼は口を覆うテープの下で低い唸り声を発していた。彼の首の壊れた蛇口から温かい生血が溢れ続けている。

 卓巳の声が死を告げる銃弾となって、彼の頭の奥へめり込んでくる。

「うわあ、すごい血だ。うまく動脈が切れやがった。すごい、すごい。おまえの頭も背中も、もう血の池に浸ろうとしとるぜ」

 言われる通り、髪の毛にも背中にも蓮は生温かい血を感じていた。彼の首から生命が流れ去っていく。溢れ出した涙がテープで堰き止められて、目の奥へと逆流していく。黒いテープが赤く見え、血の涙に圧せられていると思う。しだいに貧血で気が遠くなり、手足がじんじん痺れてくる。その痺れがいつしか胸部へ伝わり、心臓さえも痙攣しだした。閉じられた涙や涎のかわりに、鼻から何か液体が垂れ出ている。下腹部にも生生しい液体が漏れ出ているのを感じる。心臓を死神の爪に掴まれ、もう潰されてしまうのも時間の問題だ。あまりもの胸の痛みに身をよじり、呻き泣き続けながらひいひい呼吸している。

「すげえ、すげえ」

 と誰かの声が聞こえた。

 重い水圧の海底へ彼は沈んでいく。暗い海面の方から、死刑執行人たちの笑い声が響いてくる。もう、体じゅう痺れて動かない。心臓がずきん、ずきんと、最後の数打をもがき打っている。頭も痺れ、ジーンと耳鳴りが痛い。目のテープを剥がされても、もう何も見えないに違いない。残酷な子供に手足をもがれた虫けらのように、彼は簡単に死んでいく。彼の脳裏に、いじめられたこれまでの光景が駆け巡る・・やつらはクラスの皆の前で彼のズボンもパンツも脱がし、いじめの標的にしたことを知らしめた。それから彼の地獄の日々が続いたのだ。携帯を奪われ、自転車を奪われ、弁当を食べられ、代わりに雑草を食べさせられ、虫やクモを食べさせられ、何度も嘔吐した。テニス部で全国大会に出場するために一年間トレーニングを続けてきたのに、予選前に利き手の指を折られた。それでもあきらめきれずに左手で練習を始めると、そっちの指も容赦はなかった。中間テストの解答用紙にいじめの事実を書いて出したが、先生は彼よりもクラス委員の卓巳の言葉を信じた。そしてクラスメイトたちの冷たい無視が、それらの記憶を巨大なローラーで押し潰し、その上に悲壮な吹雪を降り積もらせている。

 新たな嘔吐が錆びたナイフとなって喉を突き刺し、もう息さえできない。だけど黄泉の国へ引き込まれる寸前、生への異常な執着心が、灼熱の怒りとなって彼の中に膨れ上がってきたのだ。彼も知らない、彼の奥底に潜んでいた本物の怪物が、今、目覚めようとしていた。彼を苦しめ続けた虐待から生じた心のウイルスの恐ろしいほどの増殖から、彼を守る抗体が生み出され、それもまた分裂を繰り返し強大になっていたのだ。それが今、大量の地下水に触れた怒れるマグマのように、彼の無意識の深層からはみ出そうとしていた。

「おめえの心の沸点は何度だい?」

 その重低音の怪物の声を、彼は確かに聞いた。

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