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 翌日の放課後、坂口蓮が帰り支度をしていると、いつものように卓巳が近づいて来た。

 宮川卓巳は頭脳明晰なクラス委員で、彫の深い西洋系の美男子で、催眠術師のような瞳が特徴だ。それは見つめる相手を深海へ引き込むような神秘的な瞳だ。蓮は目が合わないようにうつむいていたが、足音が迫るだけで身震いが止められなかった。だけど今日はなぜか卓巳は蓮の横を過ぎて行き、後方の席の女子をフルネームで呼んだ。

「川島みち、話があるけん、ちょっと来て」

 突き刺すような目で見つめ、美智が言葉に詰まっている間に、卓巳は微笑すると、もう歩き出していた。学校一の美男の誘いを断る女子などいない、というような自身が卓巳の背に満ちていた。

 蓮はこそこそ逃げるように教室を出た。だけどすぐに立ち止まり、振り返っていた。

「川島みち?」

 と蓮はもらし、何を考えたのか、卓巳の背に追従するショートの黒髪娘を尾行していた。階段を降り、上履きのまま外へ出た。娘はひとけのない講堂裏の狭い壁際へ入って行く。さらに追おうとすると、卓巳が一人、引き返してきた。蓮は間一髪、物陰に身を隠した。卓巳が過ぎるのを待って、蓮は忍び足を進め、講堂の裏を覗き見た。

 壁に背中を付けた美智の両肩の脇を、長身の男の両腕が抑え込んでいる。裕次だ。

「おれはこげんマジなんやけん」

 という裕次の声。

 吉川裕次の顔は、縦長で、目が吊り上がり、大きな口の両端も上がっているので、狼を連想させた。髪は短いくせっ毛だ。

「告られるのは慣れとるけど、これはひどいんじゃない?」

 美智の声は強がっているが、明らかにうわずっている。

「これがおれのやり方やけん。みちは、もう、逃げられん」

「ばかじゃないと? あたしとあんたが、つり合うと思っとると? うわっ」

 縦長の顔がいきなり近づいて来てキスしようとするので、美智はとっさに顔を背けた。

「マジ、好きやけん、おれの女になれ」

 裕次の両手が美智の丸い頬を押さえて動けなくした。今度こそはと、ゆっくり顔を近づける。

 美智は身を沈めて必死で逃れようとするが、野獣の力は圧倒的だ。

「助けてえ、きゃああ」

 壊れかけた悲鳴を狼の口が塞ごうとした寸前、飛び出してきた蓮の右拳が裕次のこめかみを殴りつけた。

「このこに、手を出すな」

 裕次は美智から離れてよろめいた。

「な、何だあ?」

 突如出現した邪魔者を不安げに見る。

 蓮は美智の盾となって彼を睨みつけた。

 闖入者の正体が蓮だと気づいた裕次の頬に、血色が戻り、見る見る怒りに燃え上がっていく。

「誰かと思えば、れんじゃねえか。おまえ、また指の骨折られたいのか?」

 裕次は蓮の胸ぐらを右手でつかみ上げた。

 蓮は必死に敵を睨み続け、声を絞り出した。

「おれは、死んでも、このこを、守る」

「はあ? 何だとお? 殺されてえのか?」

 裕次は蓮の胸ぐらをつかんだ腕を上下に揺さぶった。

 蓮は両手を突き出して裕次の両耳をつかんでいた。前に折られた指の痛みはぶっとんでいた。

「殺せる、ものなら、殺しやがれ。そしたれおまえも、長いこと、檻の中だ。さあ、殺せ、殺せ」

「痛いやろがあ、クソがあ、マジ、殺しちゃる」

 逆上した裕次の拳が蓮の顎を強打した。

 ガンという脳内の響きに蓮の膝が折れた。それでも耳をつかむ指だけは、命綱とばかり、離さない。耳を下へ引かれ、裕次は顔をゆがめ、叫び声をあげていた。罵声を浴びせながら、膝蹴りを蓮の腹に食い込ませた。胃腸が破裂したような激痛に蓮は指の力も無くし、地面に崩れ落ちた。脂汗が体じゅうから湧いた。腹に足先が追撃してきた。

「クソがあ。クソがあ」

 猛獣と化した裕次は容赦なく蹴り続ける。

 身悶え、のたうちながらも、蓮は息絶え絶えに呼びかける。

「どうした? まだ生きてるぞ。早く殺せ。早く人殺しになりやがれ。ほら、もっと」

「何だ、おまえ、何で笑ってやがる?」

「おれは、嬉しいとよ。おれは、今まで、おまえらの、ばかげたいじめを、受けて来た。それは、苦しいだけ、悲しいだけ、だった。だけど、今は、違う。今は、このこのために、暴行を、受けている。これがどんなに幸せか、おまえには、分からんやろ? その上、おまえが、殺人者、になって、長いこと刑務所に、入れられるかと思うと、嬉しくて、ゾクゾク、すると」

 口から血泡を吹きながらも笑う蓮を見て、裕次は眉を吊り上げた。

「そうか? だったら本当に殺してよかとやね? おれを本気にさせたおまえが悪かとばい」

 蓮の頭をサッカーのペナルティーキックのように蹴ろうとする裕次の背中に、美智が飛びついて抱き止めた。

「もう、やめてえ。ほんとに死んじゃうよお」

 蓮は喉を詰まらせながら呻いた。

「みち、おまえは、逃げろ。ここに、いちゃ、だめだ」

 その顔を裕次の怒りの蹴りが吹き飛ばした。

 白目を剥いて動かなくなった蓮に、美智が飛び込むように抱きついた。

「れんくん、ねえ、生きてるよね? ねえ、れんくん? ああ、どうしよう? 先生を呼んでくるけん、待ってて」

 美智は職員室へと走った。


 数分後、美智は初老男性の担任教師の三島を連れて戻って来たが、現場から人影は消え去っていた。

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