3

 佐藤希望は死ぬ必然に憑りつかれていた。そんな希望の胸に今、黒い生命が飛び込み、懸命にしがみつき、喉を鳴らしながらミャアミャア訴えていた。何か生きる根源のようなことを、しがみついて訴えていた。希望がポケットから携帯電話を取り出して画面の光を当てると、黒猫のエメラルドグリーンの目が闇に浮き上がった。猫は成猫の半分くらいの大きさで、顔も小さい。ミイラのようにひどく痩せていて、幻を抱いているかと思えるほど軽かった。

「あんた、全身真っ黒なのね。どれどれ・・」

 スマホの光で股間を照らした。

「女の子なのね。ああ、あんた、足が折れちゃってると? あ、あれっ?」

 光がふいに消えて、黒猫は再び闇にまぎれた。

 希望は何度も再起を試みたが、もう電源は入らなかった。

「このオンボロがあ」

 黒銀の鱗がうごめく波の奥へ、携帯電話を投げ込んだ。

「これで、あいつらからの誘いも来んわ」

 子猫は喉を鳴らしながら、顔を希望の胸に擦りつけたり、冷えた手を舐めたりしていた。

「ああ、ほんと、困ったね。お腹すいて、死にそうなんでしょ? でも、食べ物なんて、なーんもなかとよ。仕方なかけん、あんたも、あいつらのように、わたしを食べたらよか」

 そう言って、娘は波音に揺れる星屑を仰いで身を横たえた。

 子猫は彼女の頬をざらついた舌で舐めたが、突然暗やみから何ものかが近づいて来たのを感知して、一瞬で闇の狭間へ逃げた。希望は、驚愕のあまり声も出せず、身動きもできなかった。ただ鳥肌が立つ全身を震わせた。

 夜にまぎれた人影が、鞄の中から何かを取り出して、希望の方へ差し出した。

「食べ物」

 若い男の声が闇を揺さぶった。

 聞き覚えがあるようなその声の主を、希望は必死で見定めようとした。

「えっ?」

 恐ろしく巨大な黒蛇が這うように、すぐ側を大河は流れていた。

「猫、の」

「えっ? きゃっ」

 希望の胸へ子猫が「ミャアミャア」駆け戻って、再び頬を舐めた。

「ほら」

 男の影がゆっくり近づいて、希望にそれを差し出した。弁当箱のようだ。男の顔はほとんど見えない。希望が上体を起こして弁当を開くと、中から思いもよらぬものが跳び出して来た。

「うえええ」

 悲鳴をあげながら弁当箱を落とし、希望は這って逃げた。振り返って、凝視するが、よく見えない。恐々近づいた。どうやら黒猫が餌に食いついているようだ。

「それは、何ですか?」

 と非難を浴びせるように問う。

「おれの、弁当」

「弁当って、何か跳び出て来ましたよ」

「飢えた猫なら、食べると思って」

 希望は首をかしげ、じっと男を見た。

「その声は、もしかして、坂口くん?」

「な、何で、知ってる?」

「ああ、やっぱり、坂口くんだ。わたし、誰だか分かる?」

「だから、何で、おれのこと、知ってる?」

「だって、クラスメイトだもん。坂口れんくん、うちのクラスじゃ、有名やけん」

「おれが、有名?」

「あ、ごめん」

「じゃあ、おれがあいつらにいじめられていること、知ってるなら、その弁当だって、分かるやろ? 元の中身はやつらに食べられ、代わりにバッタとか入れられ、食べさせられとるとよ。吐くまで食べなきゃ、もっとひどい目に合わされるけん」

 夜風が二人を暗黒の大河へといざなっていた。闇の顔を彼らは見つめ合っていた。

「先生には、相談せんと?」

「この前の中間テストの時、数学の解答用紙に、答えの代わりに、やつらにされたこと、全部書いたとよ」

 数学を教える初老教師の三島教諭が、彼らのクラスの担任だった。

 希望の声の熱っぽさが増した。

「それで、どげんなったと?」

「三島先生が、たくみたちを呼びだしたけど、逆におれがやつらを陥れようとしてるってことになって、おれがひどく叱られたとよ。テストも0点だから、期末で八十点以上取らなきゃ夏休みに強制課外を受けなきゃならないし、やつらには、チクったことの報復として、足の爪を剥がされるし」

 黒の流れのすぐ横で、黒い子猫が夢中で狩りをしている。小さな命がさらに小さな命たちを奪っている。

 二人はしばらく口を閉ざし、大河の深淵から押し寄せて来る無数の波や、猫の捕食を見ていた。

 やがて希望は声を震わせ、泣きそうな声を出した。

「わたしも、同じなの」

「えっ?」

「わたしも、あんたと同じやけん、今、この川で、死のうとしとると」

「同じって?」

「わたしも、あいつらに・・宮川、吉川、田沼の三人に、やられちゃってると」

 虐げられた弱者が、互いの壊れた瞳を見つめ合った。闇に沈む瞳に重く隠されている「やられちゃってる」の意味を、蓮は胸を突き刺す痛みで感じ取っていた。

「三人に?」

「三人、とも」

 大粒の涙がニキビの間を流れ、ふくよかな唇に触れた。夜がそれを隠していたが、蓮には彼女の垂泣がやはり痛すぎる胸の疼きで分かった。

「ジャンヌ」

 名を知らぬ娘に、蓮はなぜかそう呼びかけていた。

「えっ?」

 しまった・・

 と蓮の胸は叫んでいた。

 だけど、どうしても娘の名を呼ばねばならないと感じ、こう続けたのだ。

「ジャンヌは、おれと、同じなんかじゃない」

「ジャンヌ? 誰のこと?」

 蓮は『おまえのことだよ』と言うように、右手の指で娘の頭をポンと押した。

「わたし? わたし、ジャンヌなの?」

「うん」

 娘はしばらく首をかしげていたが、ふいに嬉しそうにクスクス笑いだした。

「知らんかったわ。わたし、ジャンヌ、なのね?」

 ジャンヌのぴちぴちした笑い声が、破壊された闇夜にほんのわずかな光を灯した。

「わたしも知らないわたしの名前を知ってるなんて、あんた、すごいね」

「うん」

「でも、何でわたし、あんたと同じじゃないと?」

「それは・・うまく言えんけど‥ジャンヌは、女、やけん」

「わたし、女なんかじゃないよ。まだ、十六やけん」

 蓮はその言葉の重さに気づかなかったが、娘の手が肩からぶるぶる震えていることを知り、衝撃的に彼女の手を両手で握っていた。すぐに自分のしたことにびっくりして、その手を離そうとした。だけどジャンヌの両手の指が彼の指にもつれて、ほどけなくなったのだ。さらに娘が異常な声を噴き出しながら彼の胸に身を投げて来たので、驚きのあまり身動きできなくなった。娘の声は、深い河の底から魔物が吼えているような恐ろしい響きだった。餌を食べていた黒い子猫が、全身の毛を逆立て、再び草原へ逃げ込んで消えた。それがジャンヌの泣き声だと、蓮はなかなか理解できずにいた。さっき笑ったばかりの娘の急変についていけなかったし、こんなひどい人間の泣き声を彼は知らなかった。

「うおおお・・」

 魂を吐き出してしまいそうな号泣だ。

「うおおお、うおおお・・」

 蓮の体にしがみつき、胸に顔を埋め、全身震わせながらジャンヌは泣き続けるのだ。その涙の渦が、しだいに巨大な渦巻きとなって蓮に迫っていた。そしてそれが彼を呑み込み、その凄まじいうねりで彼をもみくちゃにすると、彼の胸の内のしこりのようなものが熱く溶けだした。やがてそれはいっきに温度を上げ、ついには沸騰するように恐ろしい勢いで膨張を始めた。そのあまりに熱すぎる激流に、蓮の意識は遠のいていった。そして突然、彼の無意識の深層から、彼も知らないもう一人の彼が、どっとほとばしり出たのだ。

「うおおお・・」

 ジャンヌと同じ波長で、彼も泣きだしていた。

「おいら、ずっと、こんなふうに、泣きたかったんだ。ずっとずっと、本物の泣き声をあげたかったんだ」

 と彼は叫んでいた。

 絡んだ指がほどけ、二人、どちらともなく抱き合っていた。

「やっぱり、おいらたち、同じだよ」

 と訴えながら、彼は声を張り上げて泣いた。

「わたしたち、同じ、なのね?」

 と応えながら、ジャンヌも熱い涙に溺れていた。

 

 いつしか黒い子猫も二人の肩に駆け戻っていた。そして二人の濡れた頬をぺろぺろ舐めた。

 叫泣が治まったジャンヌが、男から腕を離し、黒猫の全身を撫でながら語りかけた。

「おまえは、生きたいとやね? だったらわたしの過去の名前、おまえにあげるよ。わたしは今夜からジャンヌって娘に、変わるんだもの。おまえは、今夜から『のぞみ』っていうとよ。『希望』と書いて、『のぞみ』っていうとよ」

 なおも泣き続ける男子も、一緒に黒猫を撫ぜた。そして指と指をそっと触れさせながら聞いた。

「だったら、ジャンヌは、もう、川に入ったり、しないの?」

 彼の口調は、蓮のものとは明らかに違っていた。表情も違うが、闇がそれを隠していた。

「だって、わたしが死んだら、この子猫だって、生きていけないでしょう?」

 そうジャンヌは問い返していた。

「それにれんくんだって・・」

「れんくん? おいら、れん、なんかじゃないよ。おいら、ピエールっていうんだ」

 と男子は言って、また泣き出す。

 ジャンヌはきょとんとして闇の奥を見つめていた。だけどやがて幾度かうなずき、無尽の涙の男に寄り添って優しく言った。

「いいよ、ピエール」

「いいって、何がいいんだい?」

「わたしの胸で泣いていいとよ、ピエール。泣き虫ピエール、わたしたち、これからずっと、仲間やけんね」

 ジャンヌは、坂口蓮がおどけていると勘違いしていたのだ。




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