異世界の扉

第25話 1




 エカテリーナ―――詩織先輩との一瞬のガラス越しのキスだった。

 その直後、小さくなり始めた空間転移ゲートは、いきなりと言った形で消滅した。

 部屋の中に一人残されたオレは、ちゃぶ台の上にある詩織先輩から預かった腕時計に目を落とした。

 七時四十一分だった。

 玄関を出ようとした時、確か七時四十分だったはずだ。

 一分しか経っていなかった。

(今のは……夢だったのか?)

 オレはそう思った……いや、そう思おうとした。

 だけど、痛みもなくスムーズに動くおれの左腕が、今し方の出来事が現実のものだと教えてくれた。

「詩織先輩……」

 また涙がこぼれた。

 オレの左腕を治療するために、異世界に召喚してくれたのは間違いなかった。

 詩織先輩だってきっとオレと一緒にいたかったはずだ。

 なのに、治療が終わるとすぐさまオレを突き放した。

 愛人としてザグロス伯爵家に向かう事など、オレが許すはずもなかったからだ。

 だから詩織先輩は、ザグロス家に嫁ぐと嘘を吐き、鎌田由美のようなひどい女を演じて見せたのだ。

 オレに嫌われて、自分に未練を残させないために……。


 そんな詩織先輩の優しさが、オレには悲し過ぎた。

 育ててもらったマルロウ家への恩義と、オレに対する愛情を優先させた結果、自身だけが不幸になる未来を選択してしまったのだ。

 それを思うと、また涙が溢れた。

「詩織先輩……」

 オレは大切な人を二度も失った思いだった。



 その日は一学期の終業式だ。

 二階の廊下でこっちに向かって来る鎌田由美と出会った。その隣には二人の空手部の先輩がいた。

 もうひとつの未来で、オレが腹にナイフを刺した先輩達だった。

 どうやら鎌田由美は、この二人にボディガードを頼んでいたようだ。

 だが、この未来のオレは、ズボンの中にナイフを潜ませていなかったし、鎌田由美をボコボコにするつもりもなかった。

 詩織先輩が、自分の未来を投げうってまで守ろうとしたオレの未来だ。

 鎌田由美への憎しみは消せないが、詩織先輩のオレに対する思いを、無駄にはしたくなかった。

 

 オレは鎌田由美には一切視線を合わせず通り過ぎた。

 そんなオレを気にする鎌田由美の気配を何となく感じた。

 階段に向かう曲がり角で、一瞬だけオレは鎌田由美に視線を向けた。

 立ち止まった鎌田由美が、オレを振り返っていた。



 長く退屈な夏休みに入ると、オレは詩織先輩の家に入り浸るようになっていた。

 美幸さんは在宅ワーカーだったから毎日家にいた。

 迷惑だったかもしれない。

 だけどオレは、詩織先輩の匂いのする場所を求めていた。

 体臭ではない。

 詩織先輩の営みの感じられる場所に浸りたかったのだ。


 詩織先輩を失ったオレは、これから先、何を頼りに生きていいのか分からなくなっていた。

 詩織先輩が隣りにいない未来がこれからも続くと思うと、絶望を抱かざるを得なかった。

 それは美幸さんだって同じはずだ。

 いや、十八年間一緒に暮らしてきた娘なのだから、オレなんかでは追い付けない、深い悲しみの中にいるに違いなかった。

 そんな迷いと悲しみを抱えたまま、オレはほぼ毎日詩織先輩の家を尋ねていた。


「毎日ごめんなさい。オレ、これから先、どうしていいのか分からなくて、つい足がこっちに向いてしまうんです。迷惑だったら、ハッキリ言ってください。でないとオレは、きっと毎日、詩織先輩に会いに来てしまいます」

「いいのよ、滝田君。詩織も喜んでいるわ。それにね、あなたが来てくれることで、おばさんも少し気がまぎれるから」

 美幸さんは笑顔でオレを受け入れてくれた。

「でも、前を向く努力はしなくちゃ、ね」

 そう言った後、美幸さんはある提案をしてくれた。

「詩織とあなたの繋がりの切っ掛けは、詩織から聞いているわ。だから、今度は今度はあなたが、それをしてあげたらどうかしら?」

「それって、オレが詩織先輩みたいに、落ちこぼれた人の救済をするってことですか?」

「そうよ。詩織も言っていたわ。滝田君を教えていると自分の勉強にもなるって。―――それにこうも言っていたわ。滝田君は勉強の才能があるから、本気出せば特進クラスにも進める力があるって」

 その提案は、先の見えないオレに、わずかな光を照らした気がした。

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