第18話 3







「じっとしていて」

 エカテリーナはそう言いながらオレの左肩に両手を置くと目を閉じた。

 するとオレの左腕が光に包まれ、それと同時に腕が温かくなってきた。

 時間にして三十秒くらいだろうか。

「もう大丈夫よ」

 と言ってエカテリーナはオレの左肩から手を放した。

「これで左肩は回復したはずよ。それに筋肉の強化補正も加えといたから」

 エカテリーナが何を言っているのか分からず、ぼくは唖然としていた。

 そんなオレを見て、エカテリーナはクスクスっと笑った。

「とにかく、腕を上げてみて」

 と言われたので、オレは首を傾げながらも言う通りにした。

(左腕を上げるのは、結構痛いんだよ……)

 と思いながら左腕を上げると……。

「えっ? ウソ?」

 オレの左肩は、何一つ痛みを伴う事もなく、スっと上がった。

「痛くないぞ」

 オレは左腕を右回り左回りと何度も振ってみた。

「軽い……。これ、本当にオレの左腕?」

「良かった。わたしの治癒が効いたみたいね」

「これって…魔法と言うヤツですか?」

「そうよ。元の世界に戻ったら、あなたは今まで以上の剛腕投手として注目されるわよ」

「元の世界に…戻る?」

「そうよ。良也君は良也君の世界に戻って、頑張って欲しいの」

「イヤだ。そんなのイヤです。オレは詩織先輩と……」

(詩織先輩のいなくなった世界になんかに戻りたくない……)

「ダメよ、良也君。あなたはここの住人じゃないのよ」

「それじゃ、詩織先輩がオレたちの世界に帰って来てくれませんか? オレ、詩織先輩がいないとダメなんです。お願いだから、オレの所に帰って来てください」

 オレが懇願するように言うと、エカテリーナは嫌悪感に満ちた表情を見せた。

「ハァ? なんでわたしがあんな世界に戻らないといけないの?」

「しおり……せんぱい…?」

 急変したエカテリーナの態度にオレは困惑した。

「わたしはエカテリーナ・エリー・マルロウよ。男爵家の令嬢なのよ」

 エカテリーナは居丈高な態度でオレを見下ろしていた。

 ついさっきまでの優しかった詩織先輩は、そこにいなかった。

「わたしはもう直ぐザグロス伯爵家に嫁ぐのよ。伯爵夫人になる身分なのよ。美貌にも恵まれたわたしは、これからは財力にも恵まれ、この世界にいる限り、贅沢三昧の日々が待っているのよ。それなのに…」

 とエカテリーナは嘲るような目でオレを見下ろした。

「元居た世界に帰るなんて、とんでもないことだわ。もうあんな貧乏暮らしはしたくないわ。支倉詩織の人生なんて、クソくらえよ」

(何言ってるんだ、この女……。こいつ…本当に…詩織先輩なのか?)

 オレは言葉が出て来なかった。

 エカテリーナの信じられない言動に、オレは愕然と立ち尽くしていた。

「今のわたしには美貌があるの。ブスだった詩織とは違うのよ。―――でもまあ、良也君には前世で良くしてもらったから、お礼はしたかったのよね。腕を治してあげたのは、ただそれだけのことよ」

「それじゃ、美幸さんは……どうするんだよ」

 一瞬エカテリーナの表情が曇った。

「あの人は孤独ひとりなんだぞ。詩織先輩がいなくなった家に、たった一人で残されて、毎日毎日、悲しみの中にいるんだぞ。あんたはそれで平気なのかよ。自分だけ幸せなら、それでいいのかよ」

「そ……そんなの知らないわよ……」

 エカテリーナは戸惑ったような笑みを浮かべると、激しくかぶりを振った。

「前世のことなんて、わたしにはもうどうでもいいのよ。あの世界でわたしはいいことなんて一つもなかったわ。この世界に住むわたしが本当のわたしなの。エカテリーナ・エリー・マルロウこそがわたしなのよ。ブサイクな支倉詩織に関することすべてが、わたしにとって黒歴史以外の何ものでもないのよ」

 そう言い放つと高らかに笑い、右手でくうを斬って見せた。

 折り悪く、お茶の用意を整えた侍女が戻って来て、エカテリーナの右手が茶器に接触した。

「きゃあ」

 侍女の軽い悲鳴と、落ちた茶器が割れる音がした。

 床一面に陶器の破片が散らばり、紅茶の匂いが拡散した。

「す、すみません、お嬢様」

 侍女は蒼ざめた顔で頭を下げた。

 エカテリーナは怒りに満ちた顔を侍女に向けたかと思うと、顔を上げた侍女の頬を、いきなり叩いた。

「何やっているのよ! この茶器は高いのよ! あなたなんかが一生働いた所で買うことが出来ない代物なのよ。ねえ、どうしてくれるのよ!」

「そ、それは……。も。、申しわけありません! どうかお許しください!」

 侍女は額を地面に押し当てて許しを乞うていた。

「許せですって? ああ、いいわよ。その代価をあなたの命で支払ってもらうわ。それでいいかしら?」

 意地悪な笑みを浮かべた。

 それはまるで鎌田由美のようだった。

「お嬢様……! そればかりは…ご勘弁ください!」

 侍女は泣きながらエカテリーナに訴えた。

 オレは信じられない物を見た思いで、しばらく言葉も出ないで立ち尽くしていた。

 エカテリーナの右手が上がった。

  バシッ!

 とエカテリーナが再び侍女の頬を打った。

 その瞬間、オレは我に返った。

 エカテリーナの右手がもう一度上がった時、オレは素早くその手を掴んだ。

 エカテリーナがオレを横目で睨んだ。

「放しなさい、良也君。このような下賤げせんの者に甘い顔をしてはダメよ。失敗した時はちゃんと体罰を与えて教えて上げなきゃいけないのよ」

「なに言ってんだよ!」

 オレはエカテリーナの手を引き寄せ、こちらに向かせた。

「侍女は悪くないだろ? あんたの方からぶつかって行ったんじゃないか!」

「あなた、わたしに説教するつもり?」

 こんどはオレに怒りの矛先を向けた。

「いい気になるんじゃないわよ。わたしが本気であなたのこと好きだったと思っているの? 冗談じゃないわ。支倉詩織はブスでどうしようもなかったから、仕方なくあなたで我慢していただけなのよ。でも今は違うわ」

 言いながらエカテリーナは、オレの前で両手を広げ、自分の肢体を披露して見せた。

「よく見てよ。わたしはこの通りとびっきりの美人だから、引く手あまたなのよ。だから、言い寄ってくるたくさんの男達の中から、イケメンでお金持ちの伯爵家を、わたしが選んであげたのよ」

「ちがう……」

 オレの体は震えていた。

「違う? 何が違うの?」

 エカテリーナが聞き返した。

「おまえは、詩織先輩なんかじゃない! 偽物だ!」

 オレが大声を上げると、エカテリーナは少し唖然とした後、高らかに笑い声をあげた。

「アハハハハ。確かに違うわね。わたしはもうブスの詩織じゃないんだもの。スタイルと美貌に恵まれたエカテリーナ・エリー・マルロウなんだものね。―――良也君、今までブスの詩織の暫定彼氏でいてくれて、本当にありがとうね。でもあなたの役目は、もう終わりよ。そうそう、一つだけあなたにお願いがあるの」

「何だよ」

「伯爵夫人になるわたしの邪魔はしないでね。だからもう帰ってもらっていいわよ。さようなら、良也君。ウフフフフ」

 エカテリーナは小馬鹿にするような不敵な笑みを見せた。

「チッ……」

(おれはまた…裏切られたのか!)

「ちくしょう!」

 悔しさと憎しみで心の中が一杯になっていた。

 オレは何も言い返せずガゼボに背中を向けて走り出した。

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