予備校
津田薪太郎
第1話
私が大学受験の為、都内某所の予備校に通っていた頃の話である。
都内の施設には珍しくないことであるが、その予備校は雑居ビルの中にあって、駅から出てみると四階にその看板が見える。
最寄駅は指折りの繁華街として名前が知れているものの、ビルはそれとは真逆の位置にあり、そちら側の出口から外に出てみると、向こう側とは対照的に、時代に取り残された様な何も感じられない建物群があるだけである。
駅から正面のロータリーを行き過ぎて、ひどく古ぼけた商業施設とコンビニの前を右へ曲がり、やたらめったらあかりを振り撒くパチンコ店を背にして横断歩道を渡ると、予備校のあるビルの正面玄関へ着く。
私にとっては何度も通いなれた道であるから、今更なんということもあるまいと思われるだろうが、実のところ、先ほども書いた通りこの辺りはまさしく時代に取り残された様な場所であるから、夜の遅い時間に通ってみると、やたら空疎な闇が広がっていて、街全体が空っぽになっている風に見えるのである。
特にパチンコ店の営業が終わってしまえば、明かりなどは街灯の他はコンビニしかなく、それらも夜の中にポツンポツンとあるだけで、周りを薄ぼんやりと照らす他に何も出来ない。
とはいえ、この話は周りの風景はさして関係は無い。問題はその予備校の中にあるのだ。
その日、私はひどく冷たい冬の空気に身を刺されながら、例の道を歩いて、ビルのエントランスからエレベーターに乗り、予備校へと上がった。
チン、という時代遅れのベルを合図に扉が開くと、すぐ前に受付のカウンターが目に入る。来校者名簿に名前を記入して、左手を見直すと、さらに視界の左側に集団授業用の教室と、右側自習室が目に入る。私の目的は授業だったから、教室の方へ足を向けた。
教室へ入ると、後ろのわずかに空いた避難用のドアから吹き込む隙間風に身を震わせながら、なんとか風の届かない所はあるまいかと探し、無さそうだと諦めると身を縮こまらせながら、スペースいっぱいに詰め込まれた狭苦しい席に滑り込んだ。
が、これがいけなかった。授業の最中、俄に私は腹痛を催し、急ぎ難儀をしながらトイレへ駆け込む羽目になってしまったのである。
そのトイレというのも、雑居ビルの宿命という奴だろうか、ひどく歪な形をしていて大変に狭いのである。全体で見てみれば、二等辺三角形をしていると想像してもらえれば良かろう。二等辺三角形の一番上の突端に個室があり、右方に立って用を足す小便器、その逆側に手洗い用の申し訳程度の洗面設備がある。
切迫していた私は、一も二もなく個室の扉に取り付いて中へ飛び込み、なんとか事なきを得たのだった。
さて、私が用を足し終えて、さて出るかと思った時。きい、という錆びた蝶番が立てる耳障りな音がして、誰か人が入り込んでくるかは気がした。
妙なもので、個室から出る時に人と鉢合わせはしたくないと多くの人が思う。私もそうで、扉の向こうにいる彼が出て行くのを待って自分も出て行こうと考えた。
程なくして小便器の水が流れる音がして、水道の蛇口を放って水を出す音も止まった。
人の気配が消えたので、私は意を決して戸を開けて出てみると、果たして彼はトイレから出て行った様で、中には私一人きりだった。
授業は戻らなければ。と思った私は水道の蛇口を捻り、事が事だったから急ぎつつ念入りに手を洗った。その時である。
とん、とん、と何かを叩く音がした。
誰かが扉をノックしたのだろうか。何しろ狭いトイレであるから、せいぜい二人かそこらしか入る事ができない。流石にそれは気まずいから、この予備校ではわざわざ外扉もノックする習慣が一般的だった。
私は遠慮がちに扉を開けた。力を込めていたせいか、ぎぎい、と音がしたが外には誰もいない。また扉を閉めて、私は流しっぱなしにしているのに気がついた水道を見直して水を止めると、また同じ様な音が響く。
とん、とん、と何かを叩く音だ。しかし、それにしても誰か人の気配がするわけではなかったし、何の音だろうか。そう思っていると、三度目の同じ音がして、その直後。
ごぼり、という明確な音が水道の排水口の中から聞こえた。なるほど、水が落ちる時にそんな音がしていたかと得心して、私はようやく安心した。
そういえば、気圧や気温の関係でその様な音を鉄製の管が立てる事があったはずだ。父親がちょっとした雑学として教えてくれた事だった。
そして、外へ出ようと扉を開けた時、
「つめてえじゃねえか」
確かに聞いた。ひどく湿って、どこか粘ついた声が私の耳元で響いた。
後にして思えば、私が個室の中にいる間にトイレを使っていたのは、誰だったのだろう。どこであれ、錆びついた扉を開ける音がする度に、私は私以外の誰かの気配を今なお感じてならない。
予備校 津田薪太郎 @str0717
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