瘴気という毒
先程の一件で、俺のもしかしたらこの世界でやっていけるかもなんて浮かれていた心はハンマーで粉々に砕かれた。
「あのおばさん、まだ若そうだったのに。まだ三十歳くらいだったじゃないか」
「なに言ってるんだ。三十年も生きられたなら大往生じゃないか」
テトが言っていることがすぐに理解できず足が止まる。三十年なんて、人生まだまだこれから。そう思ってしまう俺とこの世界とで価値観に差がありすぎた。
そんなのおかしいとそう叫びたい。しかしこの世界においておかしいのは俺の価値観の方なのだ。この世界において俺がこれまでの十八年で培ってきた常識はまったくの無価値だった。そのことに言い知れない孤独感が俺を襲う。
「……俺もいつかああなるのか?」
俺は異世界から来た。だから魔物になるなんてこの世界の法則は適応されないんじゃないか。そんな都合の良い妄想をした。
「君、胸が痛くて倒れたらしいじゃないか」
それはつい昨日の話なのに、なんだか随分と前のように感じる。それほど、異世界に来てからの時間は濃密だった。
「この世界じゃあね、子供の死亡率がとんでもなく高いんだ。なぜだかわかるかい?」
俺は首を横に振った。
「生まれてちょっとすると魔核と呼ばれる瘴気の結晶が形成される。ちょうど、このあたりにね」
テトは自分の胸あたりを指差した。そういえばおばさんが塵になったあと、宝石のようなものが転がっていた。あれが魔核なのだろうか。
「魔核は、個人の瘴気に対する耐性や周囲の瘴気の濃さで多少は前後するけど、だいたいが子供、それも幼少期に形成される。その魔核の形成時のショックに身体が耐えられずに死んでしまう子供が多いのさ」
「じゃあ、俺がこっち世界に来てすぐに体験した、あの胸の痛みは……」
俺はテトの言いたいことを理解して、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
「胸になにか異物をねじ込まれたような痛みだったんだろ?」
俺は頷く。ただ歩いてるだけなのに視界がチカチカと点滅する。
「一度形成された魔核が大きくなることはない。だから、胸の痛みは魔核が形成される一度だけだ。それなのに、明らかにぼくより年上の君はつい先日その胸の痛みを経験したと言っている。それはおかしいことなのさ。ぼくらが君の異世界から来たなんていかれた話を信じたのは、そのことも大きいんだよ。ま、決定打はあのヘンテコな薄くてちっちゃい箱だけどね」
ハンスがあっさりと俺が異世界から来たことを信じたのもそれが理由だったのだろうか。いや、ハンスの場合はなんの根拠がなくても俺の荒唐無稽な話を信じてくれた気もする。
「だから、君にも魔核はあるはずだ。そして、魔核がある以上魔物になる可能性はゼロじゃない。瘴気への耐性っていうのは個人差が大きい。だから子供の頃に死んでしまう人もいれば、さっきのおばさんや神父様のように長生きできる人もいる。君は、どうだろうね?」
そう言って、テトはぼくの胸をとんとんと指で押した。
「まあ、運がよかったじゃないか。魔核の形成時のショックで死なずに済んだだけまだマシだよ」
確かにあの痛みは今までに経験したどの痛みとも比較にならない、死を覚悟するものだと感じたが、どうやらその判断は間違っていなかったらしい。
俺を孤児院まで送り届けたあと、テトは「さっきのことをギルドに報告しなきゃならないからとまた外に出ていった。俺は閉められた扉に手を伸ばす。この大した厚さもない扉一枚隔てただけの外の世界が、今朝よりひどく遠くに感じた。
「おかえりーって、なんか元気ないけど……大丈夫?」
しばらく扉の前に立ち尽くしているとハンスが駆け寄ってきた。俺はハンスに今日あったことを話す。
「そっか、魔物を見ちゃったんだ」
「ハンスも見たことあるのか?」
「そりゃあ、生きてれば誰でもね。特に孤児院にいるような人たちは親が瘴気に耐えられずに死んじゃったか、魔物化して死んじゃって孤児院に来たって人も多いからさ」
そうか。孤児院って親がいない子がいるところだよな、普通に考えて。
「じゃあ、ハンスも……」
「うん。ぼくの場合お母さんが魔物化しちゃって、お父さんは魔物化したお母さんに殺されちゃったんだ。本当に小さな頃のことだから、よく覚えてないんだけどね」
本当によく覚えていないのだろう。壮絶な過去を話しているといのに、頬を掻いて笑うその姿からは悲壮感など微塵も見受けられなかった。
「厳しい世界だな、ここは」
ハンスの前だというのに、思わずため息をついてしまう。
「うーん、そう言われてもぼくにとって世界はここだけだからなあ……」
「あっちもあっちで色々苦労とかもあったと思ってたんだけど……こっちに来てから自分がどれだけ恵まれた世界で生きてきたのかよくわかったよ」
「こんな世界で生きるくらいなら、死んだほうがマシ……とか思っちゃった?」
そう言って、ハンスはこちらを伺うように見上げた。
「そんなわけないだろ」
俺がそう答えれば、ハンスはほっとしたように息をつく。
「まあそうなんだけどね。実際いるんだよ。助けようとしたけど自殺しちゃった人」
俺の脳裏に、先程母親が魔物と化して一人取り残された少女のことが過ぎった。
「そんなこと……本当にあるのか?」
「壁内から追放された人でさ。今のマサトみたいに家に連れてきて、仕事を手伝ってもらってたんだけど、どうにもこっちの暮らしは合わなかったみたいで。こんなことなら、あの時死んでいた方がよかったって、自殺する前そう言われちゃったよ。だから、心配だったんだ。マサトが同じことを思ったりしてないかなって。余計なことしちゃったんじゃないかなあって」
ハンスは目を伏せて床を見つめた。壁内。それは多分、身分の高い人達が暮らしている場所なのだろうことはなんとなくわかった。でも、なにがどうあれ救ってくれた人にそんな風に言うことはないじゃないか。
「でもそんなことがあったのに、俺のことを助けてくれたんだな」
またそんな理不尽な暴言を吐かれれて嫌な思いをするだけかもしれないのに、ハンスはまた同じように俺を助けてくれた。テト達からすると壁内の人間に見えるらしいこの俺を。
「だってしょうがないでしょ? 放っておけないんだから」
顔を上げたハンスは困ったように笑った。まるで、それが良くない性分だとでも言うように。でもハンスのその性分のおかげで、俺は今も生きている。
「ハンス、ありがとな。俺を助けてれて」
ハンスはすこし驚いたように目を見開いてから、照れくさそうに身を捩り「うん!」と力強く頷いた。その笑顔を見て、俺は絶対に自殺なんてするものかと思う。
確かに飯がまずいとか、魔物になるかもしれないとか、考えるだけで嫌になることもたくさんある。けれど俺はハンスに暴言を吐いたやつのようには絶対なるものか。俺はハンスに、あの時君が助けてくれたおかげて今こうやって幸せになれたんだとそう告げられるようになってやろうとそう決めた。
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