厳しい世界の恵まれた環境
店で出すスープ作りの手伝い、そして家畜と畑の世話が俺に割り振られたおおまかな仕事らしい。これらの仕事がハンスの穴埋めだというのだから、あんな小さい身体で頭が下がる働きぶりである。
朝早く、例のごとくテトにベットから叩き起こされた俺は、現在エルと一緒にスープの具材の下拵へをしている。そう。彼女は俺を孤児院に置くことに猛反対してきたあの赤毛の少女である。
「手際が良いですね」
後ろで見守っていた神父様が俺の手元を見て、感心したようにそう呟いた。
「はい。料理とか結構好きだったんで」
美味いものが好きなやつは自分で美味いものを作ろうと思うものなのだ。だから食材を切って皮を剥く作業は慣れたものである。
「皮や芯が残らないように丁寧にお願いしますね。そういう箇所には瘴気が溜まりやすいですから」
「はあ、そうなんですか」
まるで農薬みたいだなと俺は思った。
それからしばらく神父様は俺の手元を観察していたが、「ふむ。これならすぐに任せても問題なさそうですね」と信頼の言葉を頂けた。
「それじゃあわからないことがあったらエルに聴いてください」
「えー」
とたいそう嫌そうな声が隣からあがる。目線を向ければ、「あ? 何見てんだコラァッ!」みたいにガンつけられ、最後には「チッ」と舌打ちをされるに至った。質問するようなことが出てこなければいいなあと俺は願った。
願いが通じたのか特に困るということもなく、場には食材を切る心地よい音だけが響いた。
「あんた、昨日魔物に会ったんだって?」
珍しいこともあるもので、エルが悪態をつく以外のやり方で俺にからんできた。
「エル?でいいんだよな?」
「良くない。エルはあだ名で本名はエルミーだし、居候の分際なんだからあんたはエルミー様って呼べ」
「エルミー様はなにか自分にご用でしょうか」
「別に? 魔物に遭遇したらしいから、どのくらい凹んでるのか直接話して確かめてやろうと思って」
「なるほど。エルミー様は落ち込んでいる俺を心配してくれているんですね」
「……やっぱりエルミーでいい。敬語もやめて。なんか悪寒がするから」
エルミーは頬を照れたように頬を赤らめて……なんてことはなく、人に向けるもんじゃないだろうひどく軽蔑した視線を俺に向けて言った。
「昨日エルミー達が働いてるのを見て思ったんだが、店の客層がガラの悪いやつが多そうだったのに女子二人で大丈夫なのか。ちょっかいかけられたり、揉め事が起きたりとかさ」
「ヨルがいるのに店で暴れるバカなんてこの街にはいないよ」
そう言ってエルミーは後ろを顎で示す。そこにはピーンと背筋を伸ばしている人形のような女性、ヨルが僕らを監視するように立っていた。
「へえ、強いんだな」
「そ。ヨルはうちの用心棒みたいなもんだからね」
たしかにその直立不動の凛とした佇まいはなんらかの達人を思わせる。それにしても俺がじろじろと見てもまるで反応がない。辛うじて目線だけが僕らの動きを追っているというのがわかる程度だ。こうしていると本当に人形のようだった。
「まあその代わり仕込みはぶきっちょ過ぎてまるで役に立たないけど。皮むきなんてもうすごいんだから」
ああ、それでさっきから後ろで突っ立ったままなのか。
「なあ、どうせあの馬鹿げたエグみは変わらないのに、こうして料理する意味ってあるのか?」
俺にはこの前の店がそれなりに賑わっていたことに納得がいかないのである。
「スープの方が食べやすいでしょ?料理で、味もすこしはマシになるし」
「あれでマシになってるのか……?」
とてもじゃないが信じられなかった。確かに匂いは大変食欲を刺激する素晴らしいものだ。しかし味はさすがに誤魔化しようがない。俺も慣れればエグみや痺れの奥にある味を感じられるようになるのだろうか。
「あんた、自分がいかに幸運なのかを未だに理解できてないみたいだけど、うちのスープは壁外の食事としてはかなりの上物なんだから。こうして売り物にできるくらいね」
それが疑問だったのだ。この世界で飲食を売り物にして商売が成立するというのがどうにも理解できない。失礼な話ではあるが、瘴気のせいでなにを食べても一緒だと思ってしまう。
「みんながみんな私達みたいに食料を自給できてるってわけじゃないから。それに食べ物を育てるのって結構大変なの。食うに困った時も瘴気のせいで食材をすぐに食べられるってわけじゃないし。飼育してる家畜の餌にも気を使わなきゃまともに育たないどころか魔物化するか死んじゃうし」
「それは、たしかに最悪だな」
ハードモードだなとは思う。しかし俺は向こうの世界では金さえ払えば簡単に食事にありつけるぬるま湯のごとき環境に長期間浸かっていた。命の危機も交通事故くらいのイメージだ。
だからだろうか。どこか他人事のような感想しか出てこないのは。きっとこの世界の過酷さは、これから身を持って経験していかなければ実感できないのだろう。それはちょうど先日の魔物の件のように。
「そ。あれは最悪だよ。今でもたまにいるんだよね、魔物化した家畜に襲われて死んじゃうバカ」
「家畜が魔物化した場合と、人間が魔物化した場合ってどっちが厄介なんだ?」
初めて魔物を見た時俺は心底恐怖したが、被害が出る前にテトが対処してくれたおかげもあって、俺は魔物の脅威をイマイチ具体的に理解できていないところがある。
「そんなの個体差はあるから一概には言えないけど、単純な力だけで見たら脅威なのは大型の家かじゃない? でも……犠牲者の数は人が魔物化した時の方が多いんじゃないの。ほら、家畜はいざとなればこっちも殺すのに抵抗はあんまりないけど……人間相手だとさ」
ああ、そうか。
「人間相手は、簡単じゃあないよな」
塵と化してしまった母の側にうずくまっていた女の子のことを思い出す。家畜ではなく自分の親しい人間が化物として自分を襲ってきた時、冷静に、冷徹に処理できる人はそう多くはないだろう。たとえ簡単に殺せるのだとしても、その決断を下し行動に移すのは、心というものがある人間にとってひどく難しいことだ。
「そりゃそうでしょ。だって人間だもん。向こうも、こっちもさ。ま、ここじゃ魔物は人間じゃない。そう割り切れないやつから死んでくんだから早く慣れれば?」
「慣れてしまうのも、なんだかなって感じだけどな」
「じゃあ死ね」
不意に飛んできた罵倒に、そういえば彼女は俺を追い出したいんだったなと思い出す。
「ま、私達の場合神父様は色々詳しいから、家畜や農作物の育て方とか、そういうノウハウ? を教えてくれたからうまくやっていけてるわけだけど」
「良い人なんだな、神父様は」
治癒魔法が使えて、知識が豊富で、その上孤児院を経営している。そんなにできた人間がこの世に存在していいんだろうか。
俺を受け入れてくれたのも実はなにか裏があるんじゃないかと、あまりの聖人っぷりについつい疑心暗鬼になってしまう汚れた自分が嫌になる。
「ホント良い人なことを除けば欠点がないくらい」
「良い人なのは長所だろ」
「そのせいであんたみたいのが孤児院に居座ってるんだから短所でしょ。こんな世の中で良い人なんてやってたってなんの得もありゃしないんだから。なんでそこがわかんないかなあ神父様は」
エルミーはため息をつき俺を睨みつけた。
「あんたを受け入れたところでなんの益もないどころかマイナスにしかならいって言ってんだから、もうちょっと申し訳無さそうな顔してくれない?」
言われたとおり、俺が申し訳なさそうな伏目になれば、少女は憎々しげに舌打ちをした。
「自分がどんだけ恵まれた環境にいるか、自覚した?」
「ああ。したよ」
「はっ、どうだか」とエルミーは鼻で笑った。
でも本当によくわかっているのだ。自分がその恩恵を受けるに相応しくないことも、もっと恩恵を受けるに相応しい者がいることも。ちゃんとわかっているのだ。昨日からそれはもう嫌というほどに。
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