霧の正体
「うわッ」
俺はベットから飛び起きる。
なんて嫌な夢なんだ。自分が死ぬ夢なんて、生まれて始めて見た。しかも、状況が意味不明だしさ。
夢占いでも調べるかと、手が無意識にスマホを探す。そして気づく。寝そべっていたのは、自分の慣れ親しんだベットではなかった。それだけではない。周囲を見渡せば、そこはまったく見覚えのない部屋だった。
「ああ、目が覚めたんだ!よかったぁ。お兄さんが倒れた時はどうなることかと思ったけど、安心したよ。ちょっとまっててね!」
それは夢に出てきた少年だった。いや、正確に言うならば、俺が夢だと思いたかった現実で出会った少年だろう。今はバンダナもゴーグルもしておらず、無邪気な笑いを浮かべている。
初めて見る少年の顔は、声相応の幼い顔立ちだった。少年は声をかけるタイミングもなく、すぐに部屋から出ていってしまった。
一人残された俺は胸のあたりに手をやるが、倒れたときのような痛みはもうなかった。あの激痛はなんだったのだろう。心臓発作? わからないが、まるでなにか異物をむりやり体内にねじ込まれたかのような、凄まじい痛みだった。
「これ、どうぞ」
戻ってきた少年の手には、湯気の立つ木製の器が抱えられている。それうを受け取って中身を覗くと、それは肉と野菜が入ったスープのようだった。湯気と共にうまそうな匂いが鼻をくすぐる。
俺は反射的に口の中に生成されたよだれをごくりと飲み込んではじめて、自分が今たまらなく空腹であることを自覚した。
「あ、ああ。ありがとう。えーっと……」
「ハンス!ぼくの名前はハンスだよ。お兄さんの名前はなんていうの?」
少年……ハンスはハキハキと名乗った。
「俺の名前は、マサトだ。君が、倒れた俺を助けてくれたのか?」
「運んだだけだけどね。びっくりしたよ。だって急に倒れるんだもん。まだ胸の痛みとか、あったりする?」
「それが、嘘みたいに無くなってるんだ。多分、もう大丈夫だと思う」
「そっか、なら大丈夫だね」
ハンスは安堵の表情を浮かべた。しかし、すぐに眉間にシワを寄せ、半目で俺を睨む。
「まったく、バンダナとゴーグルなしに外になんか出るからだよ。いや、でもそれにしても胸に痛みっていうのはちょっと不思議だなあ……」
ハンスはなにやらぶつぶつと言いながら頭をひねらせた。断片的に聴こえてくる独り言は、まるで俺が倒れた理由に心当たりがあるような口ぶりだった。
どういうことか詳しく聞こうと口を開くと、同時にぐぅっと腹が鳴り、自分が空腹であることを思い出した。まずは腹を満たそう。空腹じゃあ頭もまともに回りやしない。
俺は一緒に渡されたスプーンを使い、まずは一口、スープをずずっと飲む。それと同時に体を襲った異変に、俺は目をかっと開いた。
「ッ!な、んら、こえッ ゲホ、ゲホッ……!」
まず感じたのは、舌の痺れだった。次に感じたのは、思わずえづくほどのエグみだ。もし大量に口に含んでいたら、多分吐いてしまっていたと思う。食欲を刺激する良い匂いから想像できないくらい、それはもうひどい不味さだった。
しかし味以前に、この舌のしびれと喉の締まる感覚。毒を口に入れた経験はないが、これは体に悪影響を及ぼすものだと、細胞単位で自分の体がこのスープを飲むことを拒絶しているのを感じた。
「ぃったいおれ、に、なにを、食べさせたんら!」
締まる喉と痺れて回らない舌に鞭打って、かすれた声で必死に叫びながら、俺はこんなスープをニコニコした顔で食べさせてきたハンスを睨みつけた。
「あ、ごめん。瘴気が強すぎたかな。ここらへん瘴気が濃いから、それ以上抜けないんだ。お兄さん、すごく上等な服を着てるから、きっと壁内の人だよね。やっぱり食材の瘴気もそれよりずっと抜けてるんだろうなあ」
しかし、相変わらずの呑気な顔でそう答えるハンスに、高ぶっていた怒りが霧散する。代わりに困惑が頭の中を支配した。
瘴気、抜けない、壁内。理解できないワードのオンパレードだ。
「これは毒じゃない……ってことで良い、のか? ゴホッ」
起きて早々に二度目の死を感じて、荒い息を吐きながら俺は尋ねた。まだ喋ろうとすると喉がきゅっと締まり、咳が出てくる。
「いや、それは毒だけど」
「君は、俺に毒を食わせたのか……?」
だというのに、少年の顔からは特に罪悪感も、騙してやったぜ、という達成感も見受けられない。ただ、物分りの悪い子供に、常識をどう教えるか困っているような顔で、どうしたもんかと俺を見る。
「でも瘴気が含まれてない食べ物なんて、この世にないでしょ?」
瘴気。またそのワードだ。そうだ。ここは、おそらく異世界。そして俺はこの世界のことをなにも知らない。まずは、この世界のことを知らなければならない。そう自分に言い聞かせて、俺は深く息を吐いた。
「すこし状況を整理したいんだが、瘴気ってなんなんだ?」
「瘴気は瘴気だよ」
ハンスからは、身も蓋もないセリフが返ってきた。
それはおそらく、瘴気というものが尋ねる必要もなく、この世界の人間なら誰でも知っている常識というやつだからだろう。ハンスの答えがおかしいのではなく、そんなことを尋ねる俺がおかしいのだ。
「その瘴気というのは毒、でいいんだよな?」
「うん、外に漂ってるあの霧の正体だよ」
あの一面を包み込む霧が、すべて瘴気という毒なのか……?それが本当ならば、あの大通りにいた人々が皆バンダナとゴーグルを着用していた理由も理解できた。
ハンスがゴーグルとバンダナをしていない俺を責めたのも合点がいく。俺はあの時、もろに毒を吸い込んでいたわけだ。あの胸の痛みも、その瘴気という毒となにか関係があるのだろうか。
「それにしても瘴気を知らないって……あ、そういえば倒れる前、自分は異世界から来た、みたいなことを言ってたけど、もしかしてそれと関係あるの!?」
少年がキラキラと目を輝かせて、ベットに身を乗り出す。
「あ、ああ。こんなこと言っても信じられないかもしれないけど、俺は、瘴気がない世界から来たんだと思う」
「やっぱりそうなんだ!ねえねえ、瘴気がない世界って、どんな感じなの?さっきの反応からすると、食べものがピリピリしないの?」
てっきり頭がおかしい奴だと誤解されるんじゃないかと思っていたが、ハンスは更にぐいぐいと身を寄せてきた。俺は思わず身をのけぞらす。
「まだこっちに来たばかりで、なにがなんだかわからないんだ。とりあえず、現状を確認したい。異世界のことはそのあとにいくらでも話すから、その前にいくつか質問しても良いか?」
「うん、わかったよ」
そっと肩を押し返すと、ハンスは元気よく頷いて、ベットから降りた。おやつを前に待てをされている犬のようにソワソワしている少年を視界の端に捉えながら、俺は確かめるべき情報を頭の中で整理する。
「まず、このスープには瘴気が含まれていて、舌がしびれたり、不味かったりするのはそのせいって認識で合ってるか?」
「うん、正解!」
少年は笑顔で頷くが、俺は眉間にシワを寄せる。
「それって、やばくないか?だって、日常的に毒を体に取り込まなきゃいけないってことだろ?」
ハンスの話が正しければ外には霧、瘴気が充満している。つまり呼吸をしているだけで瘴気を体に取り込んでいる、ということになってしまう。
「そうだよ。でもこれ以上瘴気を抜くことなんてできないから、しょうがないよ。これでもこの街で手に入るって考えたら上等な食事なんだけどなあ。それこそ売り物になるくらいの」
さっきも言っていた瘴気を「抜く」という単語。
「なあ、その瘴気を抜くってどういうことだ?」
毒を抜く、という意味であることはなんとなくわかる。しかし具体的にどういう作業なのか、その作業をしても食材から瘴気を完全に取り除くことはできないのか、などと疑問は次々に浮かんできた。
「この世に存在するものはだいたい瘴気で汚染されてるんだ。肉や野菜なんかは一定期間放置して、蓄積してる瘴気を抜かないととてもじゃないけど食べられないんだよ。まあ、いくら放置してもその場所の瘴気の濃さによって絶対瘴気は残っちゃうんだけどね」
この世の食材はすべて毒に汚染されている。そう言われて思わず頭がクラクラした。
俺は、とんでもない世界に来てしまったのかもしれない。瘴気という得体の知らない毒が、世界を汚染している。俺は、そんな世界でこれから生きていかなければいけないのだろうか。
「な、なあ、生魚、生魚はどうなんだ?生魚をたべることはできないのか?」
「生でなんて食べられるわけないじゃないか。特に魚は瘴気を溜めやすいから、抜くのに時間がかかるのに。生で食べたりしたら死んじゃうんじゃない?」
その言葉に、俺は絶望した。生魚が食べられない。それはつまり、寿司が食べられないということを意味していた。そもそも、瘴気を抜くという作業をきちんとやったらしいこのスープでさえ食べるのが苦痛なレベルなのだ。仮に死を覚悟して寿司を作って食べたとしても、それは食べられたものではないだろう。
おそらくこの世界において食事は娯楽ではなく、作業なのだ。生きていくために必要な栄養を摂取するための作業。それは、美味いものを食べることが日々の楽しみだった俺にとって死刑宣告にも近かった。けど沈んでいる場合ではない。もう一つ、確かめなければならないことがあった。
「瘴気の含まれた食事を続けると、人はどうなるんだ?」
「瘴気が体に溜まっていって、瘴気に対する耐性とか、いろいろあるけど……最終的に、死ぬ。それは壁内の、瘴気を限界まで抜いた食事をしてる人でも変わらないよ」
その解答は俺の予想通りで、だけどもっとも否定してほしい可能性だった。そして壁内。さきほどから出てくるそのワードは、いったいなにを差しているのだろうか。場所ということはなんとなくわかるが。最初、俺はそこから来たのではと誤解されていたようだが。
「でも、普通に死ぬのはまだマシな方……」「ただいまー」
まだ続く少年の言葉を遮るように、部屋の外から男の声が響いてきた。
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