16時20分


 ――


 「ひいっ!!」


 人が……死んでいる!


 まるで眠るように目を伏せていて、口までが浴槽に浸かっている。長い髪の毛がぷかぷかと浮かび、そして右手が浴槽の外に出て、ブラブラと垂れ下がっている。


 夕日のように真っ赤な水は、その人の血によるもので間違いないだろう。


 想像だにしていない光景を目にして、足がすくみ、腰が抜けた。全身から力が消え失せてしまい、立ち上がることができない。それでも何とか、四つん這いになりながら、事務室まで逃げ込んだ。


「はぁ……はぁ……」


 息が苦しくなり、視界がグルグルと回転する。目の前は真っ暗なのか、真っ白なのか、それすらも分からない。物を見るという行為が、おぼつかなくなる。さらには、足に力が入らず、ガクガクと笑う膝を止めることができない。机に持たれることで、なんとか、姿勢を保つことには成功した。


 ――人が死んでいた――若い女の人だった――誰だろうか?――会ったことは無い――はず――莉奈ではない――莉奈は生きている――美春ではない――美春はもう死んでいる――ここの住民か?――自殺したのか?――または別の誰かか?――ならば事故にあったのか?――それとも――殺されたのか?――


 頭がパニックになり、一向に思考がまとまらない。これが少年漫画の世界ならば、または2時間ドラマの世界ならば、「冷静に状況を見極めて事件の真相に迫る主人公」なんてストーリーが展開されるところだが、現実はそうはいかない。非日常の光景を前にすると、理性や知性など、こうも簡単に失われてしまうものだ。


 世の中は「死」であふれている。ニュースサイトを見れば、この日本では毎日、多くの人が亡くなっていることが分かる。さらに、その裏では、よりたくさんの報じられることがない「死」がある。そして、もっとたくさんの「死」が、この世界のどこかで起きている。


 けれども、それらは私にとって「死」に直面したということではない。ただ、「人が死んだ」という事実を知ったに過ぎない。本当の意味で「死」に向きあう場面というのは、例えば親戚が、例えば友人が、例えば先生が、命を落とした時だったり、または自身の眼で直接的にそれを目撃した時だったりする。


 昨日の朝、美春が死んだことを知った。今日の朝、コーダイ先生が死んだことを知った。そして今、誰とも分からない死体を目にしてしまった。約2日で合計3回も「死」がやってきた。ちょっと多過ぎやしないだろうか? はたして、そんな女子高生がいるのだろうか? しかも、そのうち2回は、ただ「死んだ」のではない。「殺された」のだ――


「あ!」


 ひとつの、良くない想像が頭に浮かんだ。もしも、この死体が美春たちと同じように「殺された」のなら――そして、その犯人がアイカの開発者だったとしたら――


 やっぱり、そいつは異常な性癖の持ち主で、アイカが人を殺していくのが愉快でしょうがない、人が亡くなることで幸福を感じてしまうような奴に違いない。そして、次のターゲットは――


 体から、血の気が引いた。


 ――まずい! この場所にいてはいけない!


 こんなところで、うずくまっている場合ではないのだ。一刻も早く、脱出しないと、次は私が同じ目にあってしまう。


 足をパンパンと叩いて、震えを抑えようと気合を入れる。


「ふぅ」


 深呼吸を一つすると、心臓のバクバク音が収まってきて、少しだけ冷静さが戻ってきた。ヨシ!とばかりに、なんとか立ち上がる。そして、一歩ずつゆっくりと、この場所から離れていった。


 どうにかして、サーバールームまで戻った。窓が無いから脱出できないという状況は、相変わらずだけれど、ひとつだけ、思いついたことがある。ここにあるPCは全てに電源が入っているみたいだ。もしも、それらのうち一つでも外部へのアクセスが可能であれば――例えばSNSのWebサービスを開いて、莉奈に助けを求めるという事が可能だ。


 急いで、PCにつながったマウスを動かして、操作できるか確かめてみる。けれど、だめだった。モニターで一個一個の表示を確認してみても、どれもロック画面が表示されてパスワードを求められてしまう。


「お願い! どれでもいいから!」


 繋がっているマウスやキーボードを手当たり次第に、ガチャガチャと操作してみたが、ロック画面に遷移しないものは、なかなか見つからない。思わず、キーを叩く音が大きくなってしまう。


「あ! あった!」


 10台ほど操作して、ようやくお目当てのPCを探すことができた。一台だけ、小さな白いノートパソコンが電源につながったまま放置されていて、タッチパネルに触れたところ、ロック画面なしで入ることができたのだ。


 これで、ようやく脱出することが出来る。そう喜びながら画面を見た瞬間、PCを操作する手が止まってしまった。


「うそ……でしょ」


 デスクトップに置かれた沢山のファイルの名前に愕然とする。


 ―― チャットボット(仮)アイカ要求仕様書

 ―― アイカ感情分析用サンプルデータ

 ―― アイカ画像ファイル最終版

 ―― アイカUIテスト指摘一覧

 ―― ……


 数多の「アイカ」と書かれたファイルが、そこにはある。すなわち、このPCの持ち主は、そして、この場所の住民はアイカの開発者に違いない。やはり、私は――


 「殺される!」


 ヤバい! 早く逃げないといけない! SNSにアクセスして、助けを求めなければ!


 急いでブラウザを立ち上げる。


「あ、あれ?」


 けれども、またしても、操作する手を止めてしまった。


 ブラウザを起動すると、大手のブログサイトのページが立ち上がった。そこには、非公開モードで「アイカの研究開発ノート」と書かれているではないか。上から順に目を通すと、すぐに、それが開発者自身の日記なのだと分かった。投稿者の欄には「WebMaster」と書かれている。なるほど、アイカが「マスター」というのに合致している。


 いや、こんなところでブログなど読みふけっている場合ではない。一刻も早く、この場所から逃げて、助けを求めないといけない。なのに、どうしてだろうか、画面から目を離すことができなくなった。下へ下へとスクロールしながら、読みふけってしまう。


 一つ一つ記事を読み進めることで、少しずつ明らかになることがある。


 このブログには、アイカという恐るべき悪魔の誕生と、彼女が「幸せ」を追い求める原因が、赤裸々に記録されていた。

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