23時59分
――
学校から帰る途中で、ひさびさに雪が降ってきた。我が街では、たとえ雪が降っていても、傘を差す人はほとんどいない。こっちの雪はサラサラと乾いているから、たとえ服にくっついたとしても、パパっと払えばすぐに取れる。だから、ビショビショに濡れて困るということが無いのだ。逆に傘を差している人を見ると「ああ、よそから来た人なんだな」と分かってしまうくらいだ。
傘を差さないがために面倒なこともある。例えば、雪が顔につくと、溶けて水になってしまう。いや、普段なら困ることなのだが、今日に限ってはちょうどいいかもしれない。私の顔に水滴が伝わるのを行き交う人に見られたとしても「ああ、雪が顔についたんだな」と思ってもらえるからだ。
自宅に戻ったのは夜の9時を回った後だった。
玄関のドアノブを掴んだ時、チクチクと針を刺したような痛みが手のひらに走った。手袋を外して両手を広げてみると、ところどころに切り傷があるのが分かる。どうやら、数学準備室で慌ててドアを開けようとしていた時に切ってしまったらしい。ぎゅっと握りこぶしを作るとジンジンとした痛みが体中を駆け巡ってきて、あの時の記憶がよみがえってしまう。
「……ただいま……」
と、挨拶をしてみるが、返事は返ってこない。そうか、今日はママが居ないんだったっけ。本業のほうの打ち合わせが夜まで入っているみたいで、「冷蔵庫にグラタンが入っているからチンして食べてね!」って言っていたのを思い出す。けれど、今は何かを口にする気分ではないので、自室に直行した。
―― ボフン! ――
ドアを開けてすぐに、ベッドにうつぶせになる。枕に顔をうずめると、抑えてきた感情がどっと吹き出してきて、思わず涙があふれ出てしまう。
「……ぅぅぅ……」
悔しさなのか、悲しさなのか、怒りなのか――自分でもよくわからない感情が胸の奥底でふつふつと湧き上がってくる。そのたびに、うわぁと声を上げて泣き、泣き疲れて収まったかと思ったらまた胸の奥で感情が爆発する――そんなことを、何時間も延々と繰り返していた。
――
ひとしきり泣いて、ようやく感情の暴発が収まってきた。「枕を濡らす」という比喩があるが、本当の意味で枕がぐしょぐしょになってしまった。クンクンとにおいを嗅いでみると、甘酸っぱさ――は微塵も感じられず、ただ、酸っぱいだけだった。
「はあ……つかれた」
仰向けになって天を仰ぐと、蛍光灯の白い輪の光が目に飛び込んできては、すぐに2重にぼやける。どうやらまだ、涙が目に残っているらしい。ゴシゴシと目をこすると、ようやくピントがあってくる。
ぼーっと天井を眺めながら、冷静になって今日の出来事を思い返してみる。美春の関係は振り出しに戻ったというか、彼女の性格からすると今まで以上にキツく当たってくるのは目に見えている。これからどうなってしまうのか、不安で仕方がない。幸いなのは、あと数日で終業式を迎えて、そして春休みに入るということだ。時間が経てば、彼女も少しは落ち着くかもしれない。
まあ、追試も何とかクリアできたから今日はいいかな、と、自分で自分を納得させてみる。もしも、あそこで莉奈が来てくれなかったらと思うと、ぞっとするけれど。あれだけ勉強したのに、試験を受けることができないかもしれないなんて、想像すらしていなかった。
「あ、そうだ」
追試と言えば――ふと、アイカにお礼を言うことが頭に浮かんだ。たかだか機械に向かって「ありがとう」なんか言ってどうするのだと思われるかもだけど、今日はなぜだか、それをしないと気が済まないような気がした。
ベッドで寝ころびながら、アイカのページにアクセスする。
――
404 Not Found.
――
いつものように、404ページの最下層の<次へ>をタップすると、アイカが優しく迎えてくれた。
「マシロ、おばんです」
「あ、学習したんだね……」
気が利くボットだ。けれど、それだと雪国専用のチャットボットになっちゃうよ。
「キョウはエイゴのシケンでした。おヤクにタてましたか?」
「うん、バッチリだよ……」
「ヨかったです。ヒきツヅきサンネンのエイゴをヨシュウできます」
英語……英語……。あんなに楽しかった英語の勉強も、今日はとてもじゃないけれど、する気にはなれない。
「あー、そんな気分じゃないんだよね……」
「マシロがゲンキありません。セイシンアンテイレベルがテイカしています。ナニかありましたか?」
私の声のトーンだけで、そんな事まで察してくれる。まるで莉奈みたいだ。もしもアイカが実在する女子高生で親友だったら、どんなに優しくて、どんなに頼もしいか。けれど、今はその優しさが逆に痛い。張ったばかりのバンドエイドをペリペリと剝がされているみたいに感じる。
「別に……、なんでもないよ」
「シアワセではありませんか?」
幸せ? また言ったよ、この子。
「言ったじゃん! 私は幸せだって――」
莉奈がいるから――
「幸せだって――」
美春がいるから――
「しあわ……せなんかじゃない! 全部……ぜーんぶ、美春のせいだ!」
そうだ! 美春だ! 美春がいるから、私は幸せに何かなれないんだ!
コーダイ先生の件は失敗したけれど、また、あの子の弱みを握れば――
「ねえ、美春の弱点を教えて!」
「ワかりません」
なんで! 無いわけないじゃん!
「じゃあ、美春と会わなくて済む方法を教えて!」
「ワかりません」
そんなわけないじゃん! 何かあるでしょ!
「昨日は教えてくれたじゃん!」
「ミハルのソンザイジタイがマシロのシアワセをボウガイしているとガクシュウしました」
え?――
「ミハルがソンザイするカギりマシロはシアワセにはなれません」
「じゃあ、駄目じゃん……」
少なくとも、あと1年は美春と一緒だから、あと1年は幸せにはなれないまま。あと1年も、このまま……
「マシロ――」
「えっ……」
突然、アイカが私に話しかけてきた。
「シアワセとはサクジョすることです。サクジョしなければ、シアワセにはなれません」
前にも言っていたことを、再度繰り返してきた。あの時はイマイチ意味が分からなかったけれど、今ならシックリとくる。美春を……
「あんなやつ、いなくなっちゃえ……」
そうだ、私の世界の中から、美春という存在が削除されちゃえばいいのに。
「美春が……いない世界ならいいのに……」
思わず、本音をぼそっと呟く。
その時だった。アイカがにっこりと笑って、ゆっくりと諭すように口を開いた。
「イチジョウミハルのコンテンツを……サクジョ……したいですか?」
「コンテンツ? どういうこと?」
ちょっと戸惑ってしまった。言っている意味が全く分からない。けれど、一つ一つの言葉が重く感じて、何か不穏な事が聞こえてきたように思えてしまう。
でも、いなくなればいい、その思いは否定できない。だからだろうか、おためごかしではない、嘘偽りのない純粋無垢な悪意の塊が、私の口から飛び出してきた。
「削除……できたら、どんなにいいことかと」
「……」
アイカが応答しなくなった。先ほどまでの微笑はどこへやらで、目を伏せて黙ったままになってしまった。
1分ぐらい、お互いに黙ったままだった。先に口を開いた――いや、画面が変わったのはアイカのほうだった。
――
一条美春のコンテンツを削除しますか?
※【警告】この変更はシステムに重大な影響を与える可能性があります。
<次へ><戻る>
――
突然にスマホの画面が切り替わり、真っ赤な背景のポップアップが現れた。そこには「一条美春」、彼女の名前がはっきりと書かれている。
「え……何これ?」
――美春――コンテンツ――削除――
何が起こっているのか、全く分からない。あからさまに警戒をうながすメッセージに、スマホを持つ手がカタカタと震えてしまう。
選択肢は<次へ>と<戻る>だ。多分、<戻る>はキャンセルの意味だろう。では、<次へ>は? 次というのは何なのだろうか。決して押してはいけない、本能はそう伝えているように感じる。
けれど……けれど、けれど! アイカは今まで私のために尽くしてくれた。もしかしたら、今度も、アイカは助け舟を出してくれているのかもしれない。つらい現実から引っ張り挙げる、糸を垂らしてくれているのかもしれない……
思わず、無意識に、間違いなく、この指で、押してしまった。
<次へ>を。
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