17時23分


「……美春……」


 ぼそっと、呟く。


「は? まだ何か言いたいの?」


 返事を返してきたが、こちらを振り返ることなく、歩みを止めようとしない。


「……美春、私は知っているんだよ……」

「コーダイ先生と――」

「!」


 一瞬、美春は「コーダイ」の単語にビクッと反応した。足をピタリと止めて、私をキッと睨みつける。その表情は、さきほどまでの鬼の形相とは明らかに異なる、どこか恐怖の表情にもみえた。この反応は、もしかして――


「えー、この子、何を言ってんの? さっきからコーダイコーダイって」

「あ、もしかしてコーダイの事が好きだとか?」

「アハハ! 真珠じゃ無理だっ――」


 何もしらない取り巻きたちが呑気に笑い出すが、


「うるさい!」


 すぐさま美春が一括する。


「み、美春??」

「あー……ちょっと急用を思い出したからさぁ、先に帰ってくんない?」

「え、そんな事言わずにさ、一緒に帰ろうよ……」

「校門で待っていようか? そうだ! 駅前にバナナジュースの専門店ができて――」

「カエレって言ってんだろ!」

「み、美春……わかった、さよならー……」


 女子とは思えない口調で罵る姿にただならぬ雰囲気を察したのか、取り巻きたちはそそくさと帰っていってしまった。


 美春と二人きり。


「で?」


 雪に埋まった私を、美春は強引に引っ張りあげる。


「何を知っているんだって?」

「美春、コーダイ先生と付き合っているんでしょ」

「は、そんなわけないじゃん。証拠でもあんの?」


 フンと強がって見せたが、明らかに動揺しているように見えた。半信半疑だったが、今ので確信した。アイカの言う通りに美春とコーダイ先生はコッソリと交際している。間違いない。


「みんなに秘密で」

「だから! 証拠でもあるのかって、聞いているの!」


 声を荒げてみせたけれど、もはや震えが隠しきれていない。


「日曜の19時、〇×タワーのカップル限定フロアに二人で登っていったよね?」

「は? あれは、たまたま偶然に、えっと……」


 この反応! アイカが言っていた通りだ。今がチャンスかもしれないと、さらに畳みかけてみる。


「先週だって、あんなところに二人だけで入っていって」

「それは……」


 今のはハッタリをかましてみせただけだ。ただ、美春は全く気付いていない。私の思った通りに事が進む。もう少しで――


「ねえ、こんな事をして良いと思っているわけ?」

「……」


 美春は言葉が出てこなくなった。


「ばれたらコーダイ先生、クビだよ。ていうか、捕まっちゃうかもしれないよ?」

「……」


 黙って顔をうつむいている。


 あと少し……あと少し……あと少しだ!


「美春だってさあ、休学とか、最悪は退学になっちゃうかもしれないじゃん」

「……ないで……」

「美春って、じつは家庭がうまくいっていないんでしょ?」

「……言わないで! お願い! 誰にも言わないで!」


 突然、顔を上げて悲鳴にも似た声で私に訴えかけてきた。その目から透明な液体が一つ流れ落ちて――頬を伝わり地面に落ちる。


「え、ちょっと美春、泣かないでよ」


 やった! 泣け!!

 

「お願い! お願いします! 何? お金? 何か欲しいものでもある? どうしたらいいの? お願いします……」


 美春は足元にひざまずいて、私の手をぎゅっと握ってきた。


「待って! 恐喝とかそういうのじゃないから! 頭を上げて涙を拭いてよ」


 いいぞ! もっと泣け!!


「じゃあ、何! 何が目的なの? もうやめて……」


 大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら懇願してくる。ついに、形勢逆転した。この日をどんなに待ちわびていたか。


「あのさあ、もう私に絡まないでほしいんだよね」

「……」

「この際だからいうけれど、私に話しかけるのも禁止で」

「……分かった……」

「ついでに、莉奈を馬鹿にするのも禁止ね」

「……分かった……」


 美春はコクコクと頷いてみせる。ポロポロと流れた涙が足元の雪を溶かしていき、気が付けば穴だらけになっていた。


「う、ぅぅぅ……うぅぅ……」


 さすがに、ちょっとやりすぎたかもしれない。苛めっ子の真似をしたかった訳では無い。人生を平穏無事に過ごすことができる、ただそれだけでいいのだから。


「じ、じゃあ、そういう事だから。バイバイ、美春。サヨウナラ」


 泣き崩れる美春を余所目に、ソソクサと急いでその場を去ることにした。


 ―― やった! ――


 帰りながら、思わずスキップしてしまう。


 ―― やった! やった! ――


 思わず、片手をあげてジャンプする。


 もうこれで、大嫌いなアイツに付きまとわれないですむ。真っ白だった私のキャンパスにうっすらとだけれど、絵が描ける気がする。天から降ってきた絵具で――莉奈のような赤い絵の具で――


 いや、違う。それは鉛筆だ。闇のような漆黒の、固く尖った鉛筆。それでキャンパスをなぞるたびに少しだけ、胸の奥底でチクチクと音がするような気がしてきた。


 そろそろ気が付くべきだったのかもしれない。私は本当の意味で「悪魔に魂を売った」ということを……


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