3月10日

16時59分

 ――


 木曜日。いよいよ追試が翌日に迫ってきた。


 いつもの通り、学校が終わったら自宅に直行する。いつもの通り、校門への道をよっこらよっこらと歩く。いつもの通り――だけど足取りはちょっと軽い。


 ここ数日で、春の陽気を肌で感じられるようになってきた。特に、今日は今年初めて最高気温が10度を上回り、コートを着ていると少し汗ばんでくるのが分かるくらいだ。道路の脇の排水路に目を向けると、雪解けの水がドドドという音を立てて流れている。雪国では、「春の足音」を直接耳にすることができるのだ。


 とはいえ、あたり一面の雪景色が完全に消え去るのは、まだまだ先のことだ。積雪の白色に代わって若葉の萌える緑色が街を彩るのは、早くても4月の頭ぐらいといったところか。運が良ければ、ちょうど入学式ぐらいのころに雪化粧の中で桜の花が開花する、そんな奇跡的なシーンに出会えるかもしれない。だけど、大抵は雪のほうが先に溶けて無くなってしまう。だから、私は人生で一度だけ、中学校の入学式の時でしかそれを見たことがない。


 雪を一歩ずつ踏みしめて歩くと、ザクザクとした音が辺り一面に響く。この時期の雪は、見た目よりもずっと重い。気温の高い昼に溶けて気温の低い夜に固まる、そういうのを毎日毎日と繰り返すことで、シャーベットに、しいては氷に変化していくからだ。校庭に広がる白の絨毯は一見すると「フワフワー」っていうのを想像しちゃうけど、あいつらは半固体くらいの硬さだ。うまくいけば上から歩けるんじゃないかとも思えてしまう。


 今日もアイカと一緒に勉強をしよう。もう追試がどうこうって感じではないけれど、彼女との会話するのは、なんか楽しい。適当な質問をしても無視せず返してくれるっていうか、驚くべき事実を話し出したりもする。さて、今日は――


「あれ、真珠じゃね?」

「ほんとだ、おーい!」


 私を呼ぶ声がする。ちょっと嫌な予感がするが、振り返って声の主を確認する。


「あ、美春……」


 嫌な予感というのは大体当たるもので、出来れば、いや、この世で一番会いたくない相手に出会ってしまった。美春は取り巻きと一緒に家路につくといった様子だった。


「莉奈と一緒じゃないの?」

「えっと、莉奈は部活があるから……」


 莉奈はバレー部の次期部長で我が校期待のエースアタッカー。部活がある日もない日も、基本的には体育館でバレーボールをバンバン打ち込んでいる。だから一緒に帰宅することは、ほとんど無いのだ。


「ふーん、そうなんだ――」


 横に並んできて、にっこりとほほ笑む。何か思うことがあるのだろうが、その顔を見ればロクなことを考えていないなと容易に想像できる。


「じゃあさ、真珠が追試に落ちるかどうか、みんなで賭けない!?」


 ほらきた。馬鹿じゃないの?


「えー、普通に勉強していれば、あんなの問題ないでしょ。落ちないに一票!」

「普通じゃないから追試なんか受けなきゃいけないんでしょ。落ちるに一票! じゃあ、美春はどっちに賭ける?」


 取り巻きたちが次々にベットしていく。こっちがどういう気持ちでいるのか、微塵も感じていないんだろう。


「えー、私はそうだなぁ……」


 美春はじっと顔を見つめてくる。


「落ちるに一票!」


 ああ、言うと思った。


「ていうか、お・ち・ろ。キャハハ」


 顔を近づけて耳元で囁いてくる。巷では、こういうのを「小悪魔」って表現をするみたいだけれども、こいつは違う。ただの悪魔だ。


「じゃあ、何を懸ける?」

「私、タピオカ飲みたい!」

「まだ言っているー だから絶滅したって」

「アハハ――」


 よくも、人の試験結果で賭けが出来るな。タピオカでもなんでも飲んでろ。ていうか、残念ながら美春が期待するような結果にはならないから。


 あきれてものが言えない。ほっとこうと、無言でこの場を離れることにする。


「あれ、真珠、どこ行くの?」


 美春が追っかけてきて、腕をグイっとつかんだ。


「もう帰るから!」

「もっと話そうよぅ。そうだ、英語を教えてあげようかぁ?」


 ベタベタと肩に手を回してきた。


 本当にしつこい。しつこすぎる。ああ、もう限界!


「さわんないで!」


 美春に向かって、最大限のボリュームで声を張り上げてみる。


「は?」


 一瞬、美春の肩がビクッと反応したが、すぐに彼女の顔がみるみると曇ってくるのが見てとれた。


「私なんかほっといてよ! みんなで楽しくタピオカでも何でも飲みに行けばいいじゃん! これ以上絡んできたら、コーダイ先生に言いつけてやるからね!」


 これまでのうっぷんを全てぶつける。莉奈が言ったとおりに。彼女の赤色をイメージして、勇気を出してみた。


 すぐに、取り巻きたちがどっと笑いだす。


「アハハ、なんでコーダイが出てくるわけ?」

「うちら、仲良く会話しているだけじゃん。真珠、友達が少なそうだし? ねえ、美春……」

「あれ、美春?」


 美春が黙ったまま、微動だにしないでいる。何か不吉な雰囲気がするから、私は彼女たちを無視してさっさと帰ることにした。


 ―― ザッ ザッ ――


 美春が、ついてきた。小刻みな雪踏み音がどんどんと近づいてくる。なんで? 何をするの?


「ちょ、ちょっと!?」


 ―― ドサッ ――


 肩を掴んで、足をかけて私を転ばしてきた。突然の出来事で耐えられず、私の体は軽々と道路に叩きつけられた。ズシンと腰から打ちつけられて、全身に激しい痛みが襲ってくる。


「いたい!」


 さらに、美春は転んだ私の両肩を抱え上げて、持ちあげようとする。


「ちょっと、はなしてよ!」


 美春は恐ろしいくらいの力で私の体を掴んで離さない。取り巻きたちが慌てて駆け寄ってきた。


「アンタら、足もって!」

「わ、わかった……」


 4人がかりで、ひょいと持ちあげられてしまう。


「こっち! せえーのっと」


 私の体を左右に一振り、二振り、反動をつけて――ひょいっと投げ放たれて――雪の校庭に向かって体が舞って――


 ―― ズドン! ――


 校庭の雪の絨毯の中に、体が埋まっていく。凶器のように硬い雪の結晶が、私の手を、足を、顔を、ザクザクと切り刻んでくる。


「いったい!」


 一瞬の出来事で頭の中がクラクラ、クラクラと回転する。ぼやけて見えていた視界のピントがだんだんと合ってくるにつれて、鬼の形相でこちらをにらむ美春の姿が鮮明に映るようになった。


「あんたさあ、誰に対してものを言っているわけ?」


 さっきまでの笑みはすっかりと消え去り、無表情で声のトーンも冷たくなった。


「調子にのんじゃねーよ! ブス!」


 美春は足元の雪を手に取って丸めて、勢いよくこちらに投げつけた。


 ―― うっ! ――


 石のように重たい雪玉が、私の胸元辺りにヒットする。思わず、呼吸が止まってしまう。


「やめてよ!」

「勉強もできねー、カス!」


 もう一度、雪玉が体めがけて飛んでくる。


「やめ……」

「真珠じゃなくて、ただのマッシロじゃん! 頭の中が真っ白で、お先は真っ暗! 追試なんか受けずに、そのまま学校もやめちまえよ!」


 真っ白――私自身も理解しているその単語が、世界の誰よりも聞きたくないヤツの口からとびだしてくる。


「……」


 私は、何も言う事ができない。


「ちょ、ちょっと! いくら何でもやりすぎだって……」

「そ、そうだよ。美春、何か甘いものでも食べに行こうよ」


 三個目の雪玉を握りしめて投げる寸前の美春を、取り巻きたちが慌てて止めに入った。ハアハアと肩で短く呼吸をしていた彼女だったけれど、ようやく落ち着きを取り戻したのか、持っていた雪を足元にポトリと落とした。


「フン…… あーあ、靴が汚れちゃった。バイバーイ、真珠。これに懲りたら、二度と歯向かってこないでね」


 校庭に埋まった私を放置したまま、美春たちはスタスタと帰ろうとした。


 ああ、美春、かわいそうなヤツ。彼女はキラキラと七色に光り輝いて見えるけれど、本当はステンドグラスみたいに、もろくて壊れやすい人生を歩んでいるのに――


 そうだ……こわしちゃえ。

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