3月8日

19時40分


 ――


 翌日も翌々日も、チャットボットのアイカとずっと一緒に英語を勉強した。正確には翌々日は平日の月曜日だから、「朝起きてから学校に行くまで、ずっと」と「学校から帰ってから、ずっと」だけど。放課後の空き教室とかで勉強することも考えたけど、ちょっと気が引けるからやめておいた。だって、何時間もスマホに向かって一人でブツブツ呟いているのを他の生徒に見られたら、どうよ? 下手したら学校の七不思議に認定されちゃうでしょ。


 都合3日ほど経過したことになるけれど、確かに、自分の英語の能力がグングンと上がっていくのを実感できた。さっぱり分からなかった教科書ガイドの解説がしっくりと頭に入るようになったし、例題も大方が解けるようになった。追試の対策としては役立たずな教科書ガイドだったけれど、追試の対策が出来ていることの確認としては役に立った。金をドブに捨てる結果にならなくて、良かった良かった。


 ――


 火曜日。追試まで残り3日。期末試験後の学校にも授業はある。とはいえ、授業の内容はテストに出ない。授業を欠席すると成績に響くけれど、逆にいえば出席さえすればいいのだ。


 私がいる最後尾の座席から教室全体を見渡してみる。すると、他の科目の宿題をコッソリと解いている子、小さな紙を使っての秘密のやり取りを楽しんでいる子、窓の外をぼーっと眺めている子――みんなまともに授業を受けていないのが良く分かる。美春なんて、教科書を目隠しにして漫画を読みながら「クックックッ」って笑いを押し殺している。あれで隠しているつもりなのかもしれないけれど、先生からは丸見えだと思うのだよね。よくも怒られないものだと、不思議でしょうがない。


 教室の雰囲気がヌルいから、先生も心なしかやる気がないように見える。数学の授業では期末試験の内容のおさらいをしているけれど、淡々と教科書を読むだけで、声に張りがない。生徒に当てて答えさせることもしない。楽でいいのだけれど、無味無臭で緊張感がないというか。


「ねえねえ……真珠」

「ん、何?」


 真後ろの莉奈がツンツンと背中を突いて、こっそりと話しかけてきた。


「コーダイ、今日は特にイケてると思わない?」

「えー、そうかな? いつもと同じじゃん」


 コーダイ先生。数学の教師で、うちのクラスの担任でもある。本名はコーダイじゃなくて別の読み方なんだけど、何だったのか忘れちゃった。クラスのみんながコーダイコーダイって呼びまくっている。別に陰で蔑称を付けて悪く言っている訳では無く、「コーダイ先生!」って呼びかけると返事をしてくれるくらいの、本人公認の愛称みたいなものだ。


 コーダイ先生は20台後半の今どきの男性って感じで、確か独身だ。こぎれいで背が高く少し華奢きゃしゃな体格で、インテリっぽい雰囲気のするフレームの細いメガネがよく似合っている。いわゆるイケメンって感じの部類に該当する。


 当然に女子生徒の諸君から人気があって、ひそかに狙っている子も多いとか。「センセイとの禁断の恋、モえるー」とか言っているけれど、私にはちょっと理解できない。コーダイ先生は確かにかっこいいけれど、どこか突き放したような、生徒に対して冷たく接しているような感じがして、少し苦手だ。それに、仮にそんな禁断の恋が成立したとしても、偉い人たちにバレたらお互いの立場がヤバくなるんじゃないの? たぶん、リスクを楽しみたいだけだと思う。吊り橋効果が余計に愛を燃え上がらせる、なんちゃって。


「真珠、見る目が無いなぁ。あのメガネだってさ」

「うん? 普通じゃん、何か変なの?」

「変とかじゃないって。ああいうの、今まで一度も付けてきたことが無かったじゃん。多分、新しく買ったやつだよ。いやー、何つけても似合うなぁ」


 いや、見すぎだろ。先生のメガネがどうこうなんて普通は気にしないよ。


 莉奈もコーダイ先生の熱烈なファンの一人だ。彼女は真面目だから「生徒の間は我慢して、卒業式に告白するんだ!」って普段から夢見ているけれど、この様子だとそのうちストーカー的な一方通行の恋に発展するかもしれない。頼むから、法令遵守じゅんしゅのコンプライアンス精神を固く守っておくれよ。


「あ、真珠、こっそり英語の勉強をしているじゃん」

「追試があるからね」


 数学とかもういいから、とにかく、今の私に必要なのは英語だ。まさに、人生のターニングポイントたる天王山に差し迫ったのだ。いまやらねばいつできる! いざ鎌倉! 敵は本能寺にあり! トラトラトラ!


「へえ、大変だね。 何か手伝えること、ある?」


 ありがとう莉奈。ただ、追試は大丈夫だっていう手ごたえがあるんだよね。


「うん、でも、問題ないっていうか、実は――」

「ああ、コーダイはかっこいいいなぁ……」


 いや、聞かんのかい。


 ――


 授業が終わったら、自宅に直行する。いつもなら部屋の扉を開けるや否やベッドにドボンと飛び込んで夢の世界に深層ダイブするんだけれど、真っ先に机に向かい、勉強に取り掛かる。教科書とノートを開いて、そして忘れてはいけないのが、スマホだ。教科書ガイドは……もういいかな。


 教科書を開くよりも先に、スマホでQRコードを読み取り、アイカのサイトにアクセスする。


 ――

 404 Not Found.

 ――


 このページの、「お探しのページは見つかりません」っていう文がドーンっと表示されるのが、いまだに慣れない。警告ページだから少しドキッとしてしまう。来るな!って言われているみたいじゃん。


 そんなページの最下部に鎮座する<次へ>の文字をタップすると、画面一杯にアイカが現れる。


「こんばんは、マシロ」

「こんばんは、アイカ。早速だけど、テストの例題を出して!」

「リョウカイしました、マシロ」

「そうだ、あらかた分かってきたから、間違えそうなところだけでいいや」

「リョウカイしました、マシロ。カコのカイトウからリカイドがタりていないとスイソクされるカショにシボってシュツダイします」


 アイカは段々と「進化」しているように思えた。初めのうちは「投げると打ち返す」みたいな感じで、聞きたいことが淡々と返ってくるって感じだったけれど、いつの間にか、文脈やこちらの意図を察して回答してくれるようになった。


 まるで、本当の教師からレッスンを受けているみたいな安心感と人間味が、その無機質な音声から感じられるのだ。


「では、1モンメ、ツギのブンをエイゴにホンヤクしてください――」


 夜が更けるまでひたすら、アイカとの勉強の時間を過ごした。


 ――


「うーん、疲れたぁ」


 流石に3時間以上もぶっ続けでの勉強は体にこたえる。ぐいーって腕を天にかかげて、左右にユサユサ振って体を伸ばす。


「マシロ、チョッキン3ニチのベンキョウジカンがコウコウセイのヘイキンをオオきくオーバーしています。タイチョウはダイジョウブですか?」

「まだまだ、いけるよ」

「リョウカイです。では、10プンカンのキュウケイにハイリましょう」

「おっけぇ」


 大きなあくびを、ふぁぁと一つ吐いた。正直、もう追試の対策はしなくていい気がする。残り数日は適当に流して、久しぶりにネットドラマでも見ようかな――


「マシロ」

「ん?」

「マシロのスきなタベモノはナニですか?」


 アイカが突然、質問を投げかけてきた。


 アイカの進化を感じる理由が、もう一つあった。昨日あたりから、彼女のほうから質問をしてくるようになったのだ。それも、英語以外の、私の――真珠のことについてだった。どうも、こちらが根を詰めている時とか逆に一息ついている時に、リラックスをさせようとしている、そんな風に感じた。


「えっと、パエリア! ママが作ったやつ!」

「パエリア。スペインのデントウテキなコメリョウリです」

「そうそう。めっちゃ美味しんだよ」

「マシロのスきなオンガクはナニですか?」

「えー、あんまり聞かないんだけど、しいてあげればヒゲダンとかかな」

「ヒゲダン。二ホンのダンセイバンドです」

「よく知っているじゃん。じゃあさ……ヘイ、アイカ! ヒゲダンの曲をかけて!」


 ちょっとおどけて見せる。


「デジタルミレニアムチョサクケンホウにテイショクするオソレがあるため、コンテンツにアクセスすることができません」


 何を言っているのか分からないけど、やっぱり駄目かぁ。


 こんな感じで、たわいのない質問を繰り返す。正直、くだらない内容だけど、例えば莉奈と「今、何聞いてるの? あ、ヒゲダンじゃん!」って会話するのと似ている。たわいない話題で盛り上がると、あたかも「友達」って感じがしてくる。


「マシロ」

「うん、今度はなーに?」

「マシロはシアワセ、ですか?」


 アイカからの質問に、思わず、はっと息を呑んだ。

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