失恋のあと
すみれ
どんなに辛いことがあった後でも、朝は必ずやってくる。
ワンルームの小さな窓からはいつものようにやわらかい光が差し込んでいる。
いつもより重たくて、おまけにお酒のにおいが残る体を無理に起こす。
そうだ。
美羽と別れて家に着いたあと、一人でお酒を飲んでそのまま寝てしまったんだった。
おぼろげな記憶を呼び起こしていると、ふとあの男の顔が浮かんできて、ついつい叫び声を上げそうになってしまった。
やっぱり男なんて信用できない。
あの男に関する記憶なんて、全部お酒で消えればよかったのに。
…駄目、切り替えないと。
心の中で自分に言い聞かせる。
かわいい教え子たちに、だらしない姿を見せる訳にはいかない。
うっかり目覚まし時計をかけ忘れていたけれど、まだまだ準備をする時間は十分にある。
今週も頑張らなくちゃ。
そう決意を固め、すっかり底冷えしているバスルームに飛び込んだ。
*
「山岡先生、結婚するんですか?」
「おめでとうございます!」
いつものように職員室に入ると、何やら人だかりが出来ていた。
眼鏡をかけて注視しなくとも、すぐに中心にいる人物が誰か分かる。
幸せそうな笑顔で左手を顔の近くに寄せているジャージを着た女性、その薬指でひときわ存在感を放っているシルバーのリング。
私と同期の体育教師、山岡沙織がどうやら結婚するらしいということがすぐに見てとれた。
「すみれ!」
私の出勤に気がついた沙織が大声で呼びかけると同時に、沙織を取り囲んでいる教師陣の注目が一斉にこちらに向く。
教壇に立つようになって3年近く経つけれど、一人で注目を集める感覚は何回経験しても慣れない。
なんだか悪いことをして責められているような気になってしまう。
それも、ある程度しっかりとした教師という人種に注目されるのでならば尚更だ。
「おはようございます。沙織、おめでとう」
「え、分かっちゃった?ありがとう〜。」
いや、あんなに見せびらかしてたじゃん。
そりゃあ分かるでしょ。
「ていうか、沙織って彼氏いたの?」
「あれ、話してなかったっけ?」
「うん。恋愛になんて興味無いと思ってたから、びっくりしちゃった」
面倒だからという理由だけで、ジャージにノーメイクのまま毎日家から出勤しているような人だ。
それに、沙織の口から恋愛の話なんて全く聞いたことがなかった。
「えへへ、実はこの間の合コンで出会った人なの。出会ってまだ3ヶ月なんだけどね、色々と合いすぎて運命感じちゃった」
3ヶ月?早すぎじゃない?色々とって何?
そんなに早く人のこと信用出来るの?
運命を感じるって、具体的にどういうこと?
込み上げてくる言葉を抑え、おめでとう、とだけ言って席についた。
急いで赤ペンを取り出し、小テストの採点に取り組み始める。
考えごとをする余地を無くさないと、半年育んで駄目になってしまったばかりの恋愛を思い出してしまう。
そして幸せそうな沙織と失恋したばかりの自分を比べて、彼女のことを嫌いになってしまいそうだった。
沙織はそれ以上話しかけてこなかった。
朝ご飯代わりのウイダーがやけに苦い。
まさか沙織に先を越されるだなんて思ってもいなかった。
えずきそうになりながら喉奥に流し込む。
結婚…ということは、もう相手の全てを知っているのだろうか。
あの洒落っ気のない沙織が、3ヶ月で自分の全てをさらけ出したのだろうか。
沙織も私と同じで、そういったことに積極的になれない人種だと勝手に決めつけて安心していた。
私も、今度こそ、って思っていたのに。
つい先日発覚した最悪の裏切りを思い出し、体を許していなくてまだよかったと自分に言い聞かせる。
初めては本当に信頼出来る人に捧げたいと考えているうちにすっかり大人になってしまった。
涙としてこぼれる前の瞳の潤みを、カーディガンの袖口でそっと抑える。
窓の外には満開の桜。
散ったら、美しくなくなる花。
上村すみれ、25歳。中学校教師。
担当科目は国語。
将来の夢は素敵な家庭を築くことと、生徒に信頼される教師になること。
今一番の悩みは、初めてを捧げたくなる王子様がいっこうに現れないこと。
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