第2章「閻羅王の情け」

第12話「冥府の仕事」

 劉陽華りゅうようかは喉の渇きを覚え、筆を置いて席を立った。近くに置いてあった水差しから陶製の杯に水を注ぎ、何度かに分けてゆっくりと飲み干す。これまで連続で筆仕事をしていた。休息は数刻ぶりの事である。


 一体何をしていたのかと言うと、冥府において様々な書類の整理をしていたのであった。


 陽華は少し前に死んだばかりであり、冥界に来たのは数日前の事である。通常なら冥府において十王達の前に引き出され審判を受け、生前の罪に応じた罰を受ける事になる。その結果、地獄に落ちたり、別の生き物に転生する事もある。また、生前に功績を重ねた者は冥界において役人に取り立てられたり、特に優秀な者は神に列せられる事もあると聞いている。


 陽華は現在冥界における役人見習の様な存在に任命されている。上手く手柄を積み重ねて行けば、神になる事も夢ではない。地獄に落ちて責め苦を負うのに比べたら、同じ死後の生活でも雲泥の差である。


 なお、陽華は審判の結果により役人見習いに取り立てられたのではない。死後、冥界に来てすぐに仕事を勧められたのであり、審判は省略している。


 何故その様な事が許されたのかと言うと、陽華の両親が冥土の土産に持たせた冥銭等の財物が、皇帝の葬儀に比肩する程の莫大なものだったからだ。陽華に捧げられたこれらの財宝は、冥府がその一部を税として徴収する。それが評価されたのだ。つまり、銭の力で地獄行きの可能性を断ち切ったのである。


 まさに、地獄の沙汰も金次第である。


 もっとも、陽華には自分がそれ程重い罪を犯していないと言う自負もある。実のところ生前の記憶が乏しいため、確実な事は言えないのだが、そんなに罪業を重ねてはいないと思うのだ。


 そして陽華は知らない事であるが、これは実際正しい。あまりにも悪行を重ねてきた場合、どれほどの財物を冥界に寄進しようと、地獄行を免れる事は出来ない。過去、苛政により民を苦しめたり、自らの栄耀栄華のみに腐心した皇帝は、死後冥界に来た際に財産没収の上地獄送りにされている。そして、数億年の間地獄で罪を償った後、何か低級な生き物に生まれ変わる事になっている。


 つまり、陽華が銭の力で冥界の役職を得られたと言う事は、取り立てて酷い悪人ではなかった証明なのだ。


「陽華さん、もう慣れましたか?」


「はい、おかげさまで。生きていた時のことはよく覚えてませんが、私は書き物に慣れているみたいです」


 休憩して一息ついた陽華に、近くで作業をしていた女性が近づいて来た。彼女は李蜂りほうといい、この職場における先輩にあたる。彼女もまた、死後に冥界で役人に採用された人物だ。なお、李蜂は公正な審判により取り立てられた人物で、裏口採用の陽華とは物が違う。


「仕事に慣れたのは良いですが、一旦家に戻られては? もう、二日も続けて仕事をしてますよ」


「あら? そんなに経っていたんですか。全然気づきませんでした」


 冥界に太陽は無い。それでも不思議な事に明るくなったり暗くなったりするので、一日がちゃんとある。だが、現世ほど明暗がはっきりしていないので、冥界に慣れていない陽華は時が経つのを認識できなかったのだ。


「それに、新婚なのですから、家に帰らないと旦那さんに悪いですよ。袁閃月えんせんげつさんと言いましたっけ?」


「……新婚。そうですね。一応新婚なんですね……」


 陽華は手にした杯の水を一気に飲み干すと、不満げに答えた。


 新婚というと、何やら楽し気に聞こえて来るが、陽華にとってこれはそんなものではない。


 何故なら、一応の夫である閃月との結婚は、陽華達が死んだ後、二人の両親が決めた事であり、当然ながら死んだ二人の意思の介在しない所で進んだのである。閃月とは、死んでから初めて出会ったのである。


 この、死んだ者同士を結婚させる「冥婚」という風習は、陽華達が生きていた蓬王朝のある枢華世界ではそれなりに広まっている。


 未だ医療が未発達な事もあり、若くして死ぬ者が多い。このため、結婚せず死んだ事を憐れんで、同時期に死んだ同世代の男女を、結婚させる事によりその霊を慰めようと言うのがこの風習の意味合いである。


 世界は広いため、同じ「冥婚」とは呼ばれているものの、死者に生者を娶せたり、極端な例では死者の相手となる者を殺してしまう風習もある。これらに比べると、死者同士を結婚させる形式は、かなり穏当だと言える。生きている者は誰も迷惑しないからだ。


 陽華も生前はその様に考えていたのだが、まさか自分が冥婚する羽目になるとは思っていなかった。それどころか、本当に死後の世界がある事すら信じていなかったのだ。


 もし知っていたら、冥婚はさせないように遺言を残しただろう。


「ところで、閃月さんはどちらに行かれたのでしたっけ? 初日にはここで勤務していたようですが、一刻もしない内にどこかに行ってしまわれましたが」


「書き物が性に合わなかったらしく、別の仕事に変えてくれるように頼んで来たそうです。疫凶さんによると、冥府の門番をしているとか」


「あらあら、そうなの。文官仕事の方が昇進が早いと言われているんですけど、適性が無かったのは残念ですね。それに門番の羅刹達と仕事するのは大変だと思いますが。まあ、疫凶様が割り当てた仕事なら、大丈夫でしょう」


 陽華は門番をしていた羅刹や夜叉と言った人外の姿を思い浮かべた。彼らは皆人間の倍近い巨躯を誇っており、皆筋骨隆々だ。顔も見るからに獰猛である。それに引き換え閃月はまだ少年に過ぎない。


 彼らに混じって、閃月は大丈夫なのだろうか。


「私、お言葉に甘えて、もうそろそろ家に帰ります」


「一日休んだらまた来なさい。一応疫凶様からは自由にさせていいと言われてますから、何か別の用事があったら来なくて構いませんが」


 銭の力のおかげかもしれないが、陽華達はかなり自由な行動を許されている。閃月が簡単に勤務先を変更する事が出来たのも、その様な扱いを受けているからだ。


 陽華は作業中の書類をまとめ、進捗状況を引き継ぎのために書きつけるとすぐに退出した。


 冥府を出て帰宅するのであるから、当然門を通る事になる。別に閃月と一緒に帰るためではないが、鉢合わせるのは仕方の無い事だ。


 そんな事を考えながら、陽華は足早に門まで向かって行った。

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