第2話
朝からいよいよ交通量調査の仕事が始まったのだが、仕事中はとにかく退屈で仕方なかった。
俺とオッサンを下ろして車に乗り込もうとする吉村から「何があってもそこから動くな」と言われていたが、周りには目ぼしい物もなく、平和で長閑な風景が広がるばかりで特に何も起きそうにも無かった。
刈り取られた円形の中にパイプ椅子を二脚並べ、オッサンと二人で雑木林の入口の前と睨めっこをし続けた。交通量調査とは言ったものの、開始から一時間経っても車は一台も通らず、次第に集中力も途切れて行く。
すると、隣に座るオッサンが聞いてもいないのに自分の経歴を突然語り始めた。
「ぼ、僕はね、今でこそ職はないけどね、電線工事のエンジニアリングをしていたんだ! も、元々はエ、エリート街道だったんだよ」
「電線工事のエンジニアリングって何すか。日本語おかしくないっすか?」
「し、信じられないかもしれないけど、ぼ、僕はそれなりに華々しい、世界にいた事がある」
「それなりだからその世界から落ちちゃったんじゃないっすか? だって闇バイトの掲示板見て応募したんでしょ?」
「き、君は掲示板なの? へぇー……」
「違うんすか?」
「まぁ、ぼ、僕の場合はスカウトと言えば良いのかな」
「スカウト? まさか借金払えなくて連れて来られたとかいうパターンじゃないっすよね?」
「…………」
どうやら図星だったようで、それからオッサンは口を閉じたまま何も言わなくなった。
無言のままそうやって過ごしていると、周囲にあまりに音がない事が気になり始めた。静けさは喧騒の中でこそ際立つが、完全な静けさの中に身を置くと音がない状態がかえってストレスになる事に気が付いた。
かと言って隣のオッサンとは話す気にもならず、ひたすら前を見続けて時間が経つのを待ち続けた。
身体が少しずつ睡魔に襲われそうになった頃、オッサンが再び声を掛けて来た。
「や、山下くん! 起きてないと、ほら、仕事仕事!」
「……っせーな。分かってんだよ」
「そ、そういう態度は、良くないよ。僕に対しては何をしても良いけれど、吉村さんに嫌われたらギャランティー、もらえなくなるよ」
その言葉にイラついた俺はオッサンのパイプ椅子の脚を思い切り蹴り飛ばした。オッサンはビビって立ち上がると、両手を挙げて「暴力!」と叫んだ。その胸ぐらを掴むと、今度は女みたいな小さな悲鳴をあげた。
「やめてっ! ぼ、暴力反対!」
「何しても良いんだろ? あ?」
「ぼ、暴力はやめようよ。しゃ、社会常識で、考えてごらんよ」
「常識もクソもねぇからこんな仕事してんだろ。あんたさぁ、まさか自分がまだ「まとも」だなんて思ってんじゃねーだろうな?」
「ぼ……僕は、ま、まともだよ!」
「どこがだよ。借金払えなくて連れて来られてる時点でまともじゃねーんだよ」
「嫁がいる!」
「は?」
「ぼっ、僕には、よ、嫁がいる!」
そう言ってオッサンは胸元からスマートフォンを取り出して、震える手で俺に写真を見せて来た。
写真に映っていたのはパブのボックス席でピースを決めているオッサンとフィリピン女のツーショットだった。
「何これ?」
「ぼ、僕の嫁だよ! まともじゃないと、結婚は出来ないだろう!?」
「あんたさぁ、この女と同居してる?」
「し……してはないよ。でも、夫婦の形なんてそれぞれだろう!?」
「つーかさ、この女と連絡取れてる?」
「連絡なんか取らなくたって、ぼ、僕らは愛でつ、繋がってるんだから問題ないよ」
「あんたの借金作ったの、この女だろ?」
「そ……それは、嫁の父親がフィリピンの最先端医療を受けるための資金、だから」
「馬鹿じゃねーの。金だけ持ってかれてトバれてんだよ。まだ引っ掛かる奴がいてびっくりしたわ」
「君にティナの何が分かるんだ!」
「分かるよ。その手の仕事で女斡旋してたもん」
「…………」
「今頃あんたの作った金で本当の旦那と良い暮らしでもしてるんじゃないの? もう連絡取れないよ、一生」
「…………」
「あのさ、都合悪くなって何も言えなくなるなら話し掛けてくんなよ。うぜぇよ、あんた」
「うるさい!」
そう叫んだオッサンは俺の胸元を両手で叩いた。頭に来て頬に一発右ストレートを軽めに入れると、オッサンはその場にヘタリ込んでめそめそと泣き出した。
この場所では泣こうが喚こうが誰の同情も買うことも出来ない事を叩き込んでやりたくなったが、そんな事をする価値もないと思いながら椅子に座り直した。
結局一日目は弁当を届けにやって来た吉村のバンが一台来ただけで、車が通る音すらも聞こえなかった。
バンに乗せられてホテルへ帰り、部屋でなんとなく地図アプリを開いてみるとおかしな事が起きた。
この場所を指し示すピンマークは出るのだが、道路や近隣の建物を調べようと地図を拡大すると画面が真っ白になった。アプリがバグってるのかと思い、他のアプリで開いてみたが結果は同じだった。
ホテルは山間に位置する二階立ての真新しい建物で、部屋も高級感溢れる造りにも関わらず他の宿泊客がいる様子はなかった。思えばホテルの名前もわからず、宿泊案内のような冊子もない。白を基調にした洗練された二十畳ほどの部屋にはクィーンサイズのベッドと、ソファが置かれているが、内線電話がない事も気掛かりになった。
夕飯の時間になり、狐みたいなツラのコンシェルジュが部屋へ食事を運んで来たので俺はホテルの名前を訊ねてみた。狐ヅラは表情ひとつ変えず、真顔のまま低い声で言った。
「当ホテルの名称は「ロの八十二号」です」
「ろ? 変わった名前ですね、それがこのホテルの名称なんですか?」
「はい、その通りでございます」
「創業はいつなんです?」
「建屋自体は新しく作り直しましたが、創業は太平洋戦争末期頃と伺っております」
「……そうですか。ありがとうございます」
「失礼します」
狐ヅラが出て行くと、飯をろくに食わずに酒を浴びるように飲んだ。
これは組織犯罪には関わりのない、もっと大きな何かが動いているような気がしたが手掛かりがあるはずもなく、酔いに任せてそのまま夜を越した。
時折窓の外から誰かに覗かれているような気配を感じたが、窓を開けても暗闇ばかりで何も見えず、聞こえて来るのは静まり返った夜の音だけだった。
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