第3話
仕事を開始して二日目もやはり、丸一日通して車は一台も通らなかった。オッサンが情け無い声で吉村に「あの人に殴られた」と訴えていたが、咥え煙草の吉村はオッサンの肩を叩いて「ドンマイ」と笑っただけでまるで相手にしなかった。
開始三日目になると、オッサンの身体に異変が起き始めた。
「山下くん……げ、解熱剤なんて持ってないよね?」
「解熱剤? ある訳ないでしょ。大麻ならあるけど」
「そ、そんな危ないものは、持っていたらダメだよ!」
「何? 俺に殴られた場所が痛むとか? 嘘でしょ。そんなに強く殴ってねーよ」
「違うんだよ……なんだか熱っぽくて、身体がすごく怠いんだ」
「おいおい、風邪引いたとか言うなよ。マジで洒落になんねーから」
「風邪なのかなぁ……吉村さんが来たら、早退出来るかどうか聞いてみるよ」
「そうしてくれよ。俺はあんたがいない方が気が楽だよ」
昼前。弁当を持って来た吉村にオッサンが泣きつくと、吉村はオッサンをゴミでも見るような目つきで冷たく言い放った。
「あのさぁ……ここから動くなって言ってあるでしょ」
「で、でも……身体が怠くて……」
「あんたの仕事はさぁ……夕方四時までここに座って目の前を通る車の台数を数える事なんだよね。早く帰ってホテルでおねんねする事じゃないよね。分かるよね?」
「で、でも……」
「最悪パイプ椅子に座って寝てればいいから……まぁ、頑張って。じゃあまた、四時にね」
「…………」
吉村はそのまま引き返してバンに乗り込むと、さっさと車を発進させた。せめて薬くらいは持って来てくれるもんかと思ったが、本当に四時になるまで戻って来る事は無かった。
その翌日。オッサンは体調不良が悪化して朝からガチガチに震えていた。ホテルに頼んでブランケットを数枚借り、それに包まれながらパイプ椅子に座っていたのだが、身体が震える振動はこちらにまで伝わって来そうな勢いだった。
たまに視線を横に向けてオッサンを眺めてみると、青褪めた顔で歯をカチカチと鳴らし続けていた。
「おい、あんた大丈夫かよ?」
「さささ、寒いよ。ぜ、全然大丈夫じゃない」
「ひどい震え方してるぜ。つーか風邪じゃなくね? なんか変なもんでも食った?」
「な、な、何も……ホテルで出された、た、食べ物しか、た、食べてないよ」
「マジかよ。あたったんじゃねーの? 帰ったらホテルに言って診てもらえよ」
「ダメ、だよ」
「はぁ?」
「い、言ったら、帰される、かもしれないから」
「いやいや、俺のことも考えてくれよ。感染ったら洒落になんねーから」
オッサンに呆れ果てて何も言えなくなると、俺は煙草を取り出して火を点けた。煙が無味乾燥の冷たい風に流されて行く。
この仕事を始めて四日目になると言うのに、目の前の道路には吉村のバンを除いてまだ一台の車も通っていない。それどころか、辺りに打ち捨てられたような住宅はあれども、住民の気配すら全くない。物音ひとつ、どこからも聞こえて来ないのだ。
不気味な静けさに包まれながら、九時から十六時まで椅子に座って一日十万。確かに楽勝な仕事には違いないが、精神的な苦痛が無いとは言い切れない。何かを考えるのにも飽きてきて、そのうち何も考えなくなる。日に日に頭が悪くなって行くのが手に取るように分かる。脳味噌の皺が減る。
そんな事を思いながら横を向くと、オッサンが口から血を零している事に気が付いた。
「おい、血出てんぞ!」
「だ、だ、大丈夫……これは、違うから」
「違うって何が違うんだよ、やべーだろ」
「こ、これは歯茎から血が、出て止まらないだけだから、ぼ、僕は歯槽膿漏なんだ、だから、も、問題なんて何もないよ」
黒目を天に向けたまま、オッサンは歯を食い縛る。食い縛ると歯茎に余計に力が入り、出血が酷くなる。
唇の両側から漏れる血液が滴り落ち、オッサンのズボンを汚して行く。
いくらなんでも出血し過ぎじゃないかと思っていると、吉村のバンが近付いて来る気配がした。
「オッサン! もうすぐ吉村が来るからホテルまで運んでもらえよ。あんたもう無理だよ」
「だだ、大丈夫だよ……この前、少しか、固いお煎餅を食べたから……」
銀色のバンが近付くにつれ、オッサンの震えが大きくなる。「寒い、寒い」と口から血を零しながら呻いている。
手の施しようもなく吉村の到着を待っていると、吉村はスーツ姿の役人風の男を数人引き連れて車を降りて来た。
「今のところこんな状態ですけど……中見て行きます?」
吉村が何やら男達に問い掛けている。小声で相談し合う声が聞こえて来て、髪をガチガチの七三分けにした初老の男が入口からこちらを覗き始めた。その途端、オッサンが椅子の前に勢い良くゲロをぶち撒けた。
「あっ、こりゃあやってんなぁ」
男は間伸びした声で笑い声を上げながらそう言うと、次に「すぐに回してー」と他の男達に声を掛けた。
吉村と他の男達はこちらに近寄る事もなく、そそくさとバンに引き返して何処かへ消えてしまった。
七三男が一人だけ残って何処かへ電話を掛け始め、時折入口からこちらの様子をニヤニヤした顔で伺っている。
電話を終えてもこちらを気遣う様子もなく、入口の外で上空を見つめたまま突っ立っている。オッサンはガタガタ震えながら、血とゲロが混ざった液体を唇の端から零し続けている。それからすぐに上空からバタバタと音がして、何処からともなく一台のヘリが近付いて来るのが見えた。
ヘリにはマークや標識などはどこにも無く、何の組織のヘリかも分からない真っ黒な機体をしていた。
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