第二章 次から次へとやってくる来訪者達

第13話 懐妊

 

 朝の陽射しの中、石積みの井戸にかけられた木の屋根からぶら下がる滑車にかけられたロープを引いて、井戸の底から水をたっぷりと蓄えた桶を引き上げる。

 その桶から持ち運び用の取っ手付きの桶へと水を移して……よし、今日はこぼさなかったな。


 井戸を使い始めた時は使い方を知らないのもあって色々と大変だった、力を入れすぎて滑車からロープを外してしまったり、勢いのあまり桶を壊してしまったり、水を移すときに桶を傾けすぎて水をこぼしてしまったり、桶を運ぶ途中でひっくり返してしまったりと本当に色々な失敗をしてしまった。

 

 しかし流石にもう井戸を使い始めて一週間だ、もうそういう失敗からは卒業しないといけないなとゆっくりと慎重に中で水が揺れる桶を運んでいく。

 アルナーが作ってくれた服を汚したく無いのもあるからな、兎に角慎重に慎重に、だ。

 メーア布で作った白シャツに黒ギーの毛皮で作ったベスト、黒ギー革のズボンにブーツという今の格好は王城で見たお偉いさん達の格好みたいで結構気に入っていたりする。

 


 そうして私はユルトの外に置かれた水瓶を目指して慎重に慎重に桶を持って歩いていく。

 水瓶に桶の中身を流し込んだら再び井戸へと向かい、水を汲み上げてを繰り返す。

 そうやって水汲みを何度か繰り返す途中、私はふと井戸の周囲を……人の気配の無いそこへと視線をやって……そして深い溜め息を吐く。


 井戸はアルナーとの結婚……じゃない婚約式の翌日から作り始めて、二週間と少しで完成となった。


 そしてそこから一週間だから……つまりアルナーと婚約してからは、大体一ヶ月くらいの時が経とうとしているわけだ。


 一ヶ月か、それだけの時間が経ったというのに、我が領内はこれといった変化の無いままで……つまりは領民が増えていないのだ。


 人が増えた時の為にと作った井戸と厠は……まぁ私とアルナーが使ってはいるが、本来はもっと大勢の人間の生活を支えるものだ。


 狩りの成果のたくさんのユルトも資材のまま倉庫で眠ったままで……なんとも物悲しい。


 いや……1軒分だけはユルトの組み立て方の勉強をしようと私が毎日組み立てたり分解したりで使用しているが……しかしそれは本来の使い方では無いからなぁ。

 

 アルナーは私の家族であり一緒に住むのだから、自分はここの領民であると言ってくれているので一応は領民が1人増えたと言えなくも無い……が、やはり彼女は領民ではなく家族と言うべきだろう。


 いくつものユルトが立ち並ぶ、鬼人族の村のような光景をここで見るためにもどうにかして領民を集めたいのだけども……その方法がなぁ……どうしたら良いのか今でも全く思い付かない。


 考えて無い訳ではないのだが、如何せん私には学がなぁ……。

 そうして私はもう一度の深い溜め息を吐いてから肩を落とす。


 肩を落としながら領民が空から降って来たりはしないかなとそんな馬鹿なことを考えていたりすると……何故だかアルナーが笑顔で、輝かんばかりの笑顔でこちらに駆け寄ってくる、一体どうしたのだろうか。


「ディアス!子供だ!

 やっと子供が出来たぞ!妊娠だ!」


 笑顔のアルナーから発せられたその言葉に、私は驚き……そして笑顔になって、喜びのあまりに水の入った桶を落としてしまう……お気に入りのズボンを桶の水で濡らしてしまった私だったが、それでも喜びの方が勝った私はその喜びを表現するために天へと向かって両手を突き上げるのだった。





「よーしよしよし!

 よくやった、よくやったぞ!

 こんなに早く子供が出来るとはなー、全く大したもんだ!」


 そう言って私は撫で回す、頭を撫で背中を撫で、腹……はちょっと怖いから触れないようにして他の部分を撫で回していく。


 妊娠した彼女……フランソワは嬉しそうに目を細めて私にもっと撫でられようと体をすり寄せてくる。


 枯れ草が敷き詰められただけの簡素な造りの飼育小屋の中で私はそんなフランソワを撫でて撫でて撫で続ける。


 するとフランソワの夫、フランシスが何処か落ち着かない様子でソワソワと私とフランソワの周囲を歩き回り始める。


「ははは、なんだその顔は、嫉妬しているのか?フランシス。

 よしよし、お前も撫でてやるからなー」


 私がそう言うと少し拗ねた表情を見せていたフランシスはコクリと頷きながら近寄ってきて、撫でろ撫でろと体をすり寄せてくる。


 メーアはとても賢い生き物だ、こちらの言うことを完全に理解している。


 やってはいけないと教えたことは絶対にやらないし、どこそこに行ってくれ、こっちに来てくれ、しばらく待っていてくれ、などの言葉もちゃんと理解して従ってくれる。


 アルナーが言うにはその賢さこそがメーアの最大の武器なのだそうだ。

 その賢さでもって危険を遠ざけ、捕食者達を知恵の力で欺き、騙すことでメーア達は厳しい自然界を生き抜いているらしい。

 

 それ程までに賢いメーア達が何故家畜になっているかと言えば、メーアがそれを望むからなのだそうだ。


 自分達より強い人間達が守ってくれる上に世話までしてくれて、住む場所まで提供してくれるのだからそれはもう喜んで家畜になるらしい。

 野生から家畜となって、そして人間の言葉を覚えるまでに1週間もかからないというのだからメーアの賢さには驚かされる。


 そんなことを思い出しながら私がフランシスとフランソワを撫で続けていると、側に立ち、こちらを見ていたアルナーが表情を曇らせ申し訳なさそうにしながら口を開き始める。


「あー……その……実は……ディアス、メーアの妊娠は喜んでばかりもいられない。

 その……賢い分メーアは恐怖だとか精神的負担に敏感で、妊娠中は特にそれが激しくなる。

 恐怖に追い詰められて死んでしまうこともあるくらいだ。

 それで……その、妊娠中のメーアは群れで一番強い者、つまりここではディアスになるんだけど……。

 そのディアスが常にフランシス達の側にいて守ってやる必要がある、そうやって安心感を与えるんだ。

 つまりそれは寝る時も一緒に居る必要があってだな……」


 歯切れ悪くアルナーはポツリポツリと言葉を発しながら説明を続ける。


 なるほど、つまりは私はしばらくの間飼育小屋で寝なければならず、だからアルナーはそうして申し訳なさそうにしているんだな?


 いやいや、良いとも良いとも、気にするな。

 フランシスとフランソワ、そして生まれてくる子供の為なら出産までの間ここで寝るくらいなんでもないさ。


 アルナーの説明を聞いて思ったことをそのまま言葉にしてアルナーに伝えると、アルナーは違う違うと顔を横に振る。


「えぇっと……そうじゃなくて、フランシス達をユルトに迎えるんだ。

 つがいになったばかりの所で引き剥がすのも良くないからフランシスとフランソワの両方をそうする必要がある。

 村の男の中にはそれを酷く嫌がる連中も居てな、メーアの繁殖期には結構揉めたりするんだ。

 ユルトの中はどうしても汚れてしまうし、匂いもついてしまう、メーアの視線が気になって自分の家の中なのに落ちつかないって男も……」


「ははぁ、なるほどな。

 一緒に住むくらい私は全然構わないぞ、フランシスもフランソワも大事な家族だしな。

 それに戦争中はそれはもう汚くて臭い宿舎に志願兵仲間達とぎゅうぎゅう詰めだったからなぁ、それに比べれば天国だよ」


「そ、そうか!

 そう言ってくれると助かる!

 男気のある連中は優しさに欠ける連中も多いんだが……流石私の良人(おっと)だ!」


 アルナーはそう言いながら笑顔となって……そしてそんな私達の会話を静かに見守っていたフランシスとフランソワがメァーメァーと声を上げ始める。


 人間の言葉を理解する程に賢いメーア達の鳴き声は慣れない者にはどれも同じに聞こえるが実は微妙に発音の仕方、音の高さなど細かい部分が違うらしく、それらの違いでその鳴き声に色々な意味を込めてくる……らしい。


 私はまだそれらを聞き分けたり理解したりは出来ないが、アルナーは理解することが出来るのだそうで、よく草原や飼育小屋でフランソワと会話している所を見かけたりする。


 先程のメァーメァーとの鳴き声にもどうやら意味が込められていたようで、それを聞いて理解したらしいアルナーは頬を染めつつ……何故だろうか体をくねらせ始める。


「な、何を言うんだフランソワ、私とディアスはまだそんな……。

 ふ、フランシス!下品だぞ!」


 メァーメァー。


「こ、こういう少しずつ絆を紡ぐ生活も悪くないから、良いんだ、遠慮なんかするな。

 ディアスもああ言ってくれてるんだしな……。

 ……わ、私達の……その事情は放っておけ!」


 メァーメァー。


 なんとなしにアルナーとフランシス達の会話が不穏な方向へと向かっている気がして、私はそっと飼育小屋を後にする。


 常にフランソワの側に居ろとのことだったが……会話に夢中のようだし、少しくらいは構わないだろう。


 先程水をこぼしてしまったので汲みなおす必要もあるし、フランシスとフランソワの飲み水の分も考えたら水瓶にしっかり水を溜め込まないといけないだろう。


 決して不穏な会話から逃げだした訳では無いんだ、うん。


 これから朝食の時間になる訳だし、水くみは欠かせないよな、うん。



 水汲みを終えて、ユルトの中にフランシス達の寝床……倉庫から引っ張り出した大きな桶に枯れ草を敷き詰めた物を用意して、フランシス達をその寝床へと移動させて……そうしてから私とアルナーは少し遅めの朝食を取り始める。


 アルナーが作ってくれたいつも通りに美味しい朝食を楽しんで、後片付けをして……さて、今日は何をしたものか。


 領民集めは方法が相変わらず考えつかないままだし……狩りをするのは黒ギーとドラゴンの処理で村は当分手一杯になるから、それが落ち着くまでは止めて欲しいとモールに言われているし……何よりフランシス達の安全の事を考えればありえない選択肢だ。


 なら後は……アルナーの家事の手伝いと、ユルトの組み立て練習のどちらか……いっそ、その両方かな?


 そんなことをぼんやりと私が考えていると、洗濯をするため小川へと出かけようとしたアルナーの青く輝いていた角が突然に緑の光を放ち始める。

 その光にアルナーは足を止めて、瞑目し始めて……私はその光を見ながら首を傾げる。

 あれは一体何の光なんだろうな?

 

「草原に仕掛けておいた魔法に何かが引っかかった……方向は東……どうやらここに近付いて来ているようだ。

 相手は……多分人間で……数は10人くらいだ」


 アルナーの言葉に私は直ぐ様にユルトの寝床近くに置いておいた戦斧に手を伸ばして、その柄をしっかりと握りしめる。


 緑はそういう魔法の光か、なんともまぁ随分と便利な魔法があるのだなとの驚きがあるが……今はその魔法のことよりも、その人間達とやらのことを考える方が大事だ。

 東というと……王都のある方角になるか。……王都の方から来る客になんて心当たりは無いし……盗賊だとかの場合はー……面倒なことになりそうだな。

 

「アルナー、私が様子を見てくるよ。

 その間、隠蔽魔法でフランソワ達と隠れていてくれ、このユルトと井戸なんかも隠せるようなら頼む。

 ……可能性は低いだろうが相手が客ってこともあるだろうから……私が練習で組み立てたあのユルトだけは隠さなくて良い。

 もしお客さんだったらあそこで話を聞くことにするよ。

 フランソワ、フランシス、少しここを離れるがすぐに戻るからな……大丈夫だ、人間10人程度ならドラゴンよりよっぽど楽な相手だからな」


 私の言葉にアルナーとフランシス、フランソワが頷く。

 アルナーは私なら大丈夫だろうと余裕の表情を見せてくれているが、フランシスとフランソワの表情は暗く不安が影を落としている。


 言葉で大丈夫と言ってもその不安は拭い去れないか……。

 ならさっと行ってさっとその原因を片付けるまでだ。


 外敵から領内の皆を守る為に戦う……少しだけ領主らしい仕事が出来そう……かな?


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