第4話 長年の勘

 サキは何も嬉しいことはないのに、笑顔を貼り付けたまま船内を歩いている。今週の日本人のお客様の客室は四十室。メモにチェックを入れながら、漏れがないように<日本語版船内新聞>を配布していく。


 本来であれば、清掃係のマネージャーに手渡せば済む話である。各部屋に配置された担当清掃員が、ポストに<日本語版船内新聞>を配ってくれる。それでも、人に任せるとどうしても漏れが生まれてしまう。それを笑って許して下さるお客様なら良いのだが、忘れられたと憤る方は多い。


「はるばる飛行機に乗って海外の客船に乗船してやったのに、サービスがなっていないのではないか?」一言で言ってしまえばそんな苦情電話を受けるのに辟易し、自分たちでもなんとか配れるので配ってしまおうとケンジと話し合って決めたのだ。


 そんなことをする客室乗務員は日本人くらいだが、お客様の気持ちは痛いほど分かる。「仕事を増やさなくても良いではないか」と失笑する他国の客室乗務員も居るが、「これは国民性の違いなのだ」と答えるしかない。


 受け持ちのお客様が少なければ、仕事は余分に押し付けられる。ヨーロッパ航路の船に居る今は、日本人のお客様が少ない分仕事が多い。人数は少ないはずなのに、日本人のお客様は要求が多い気がするのだが、心が折れるのであまり考えないように努めている。


 国民性なのだ。サキは心の中でそう呟いた。


 903号室に<日本語版船内新聞>を入れると、フィリピン人のクルーがサキの手を引っ張った。名札には、リガヤと書いてある。


「日本人の客室乗務員でしょ?」


 リガヤの目がキラキラと輝いた。サキは、フィリピン人を尊敬している。きっと研修で、二か月ほどマニラに滞在したのが大きいのだろう。


「そうだけど。どうしたの?」

「私、分かるのよ」

「……何が?」


 何か事件だろうか? 人に振り回されるのが仕事なので、警戒心から心臓が早鐘を打ち始める。


「ほら。分かるでしょ?」

「そんな言い方じゃ、分からないわよ」

「……この部屋、多分、今仲良くしてるの」


 なるほど。やっと話が繋がった。903号室のお客様は、お二人で一次的欲求を満たされている真っ最中なのだ。


「私、この部屋の担当で掃除をしないといけないの。ドアプレートが掛かっていないからどうしたら良いのか分からなくて……」


 リガヤの言う通り、ドアノブには何も掛かっていない。こういうときには<入室しないで下さい>のドアプレートを掛けておくべきだ。


「掃除をしないと、リガヤがマネージャーに怒られるのね?」

「そう。ドアプレートさえ掛かっていれば怒られずに済むんだけど……。でも、今は入ったらダメなのよ。自信があるわ」

「どうして分かるの?」

「さっき、入ろうとしたの。でもドアを少し開いたら分かっちゃったのよ。お客様は気付いていないわ」

「ドアを少し開いたくらいで分かるものなの?」

「分かるわよ。長年の勘ってやつね。他の部屋の掃除は終わったから、ここで暫く待っていたの。私、どうしたら良いかしら?」


 また板挟みだ、とサキは思った。「マネージャーに怒られたら、サキには報告したって言ってくれて良いから」と言うと、リガヤは花が咲いたように笑ってから礼を言う。


 リガヤの言うことが事実かは分からないが、入室することは憚られた。本当に行為中であれば目も当てられない。後から苦情が来ないことを祈るしかない。


 こういった場合お客様都合でありこちらに過失はないのだが、後々「掃除に来なかった」と憤る方は多い。「清掃員から行為中だったと伺いましたが、違いましたでしょうか?」と明け透けに聞けたらどんなに楽だろうか。現実はお客様に丁重に謝ってから、清掃係のマネージャーに頭を下げて、清掃員を派遣してもらうしかない。

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