第118話 SS05 ヤギュウ堂の親子(下)
そのとき――。
「あらあら、騒がしいわねえ」
スラリとした着物姿の女性が入り口から声をかける。
十歳の子どもがいるとは思えない若々しい姿。
その凛とした佇まいに整った顔立ち。
すれ違った人が振返るほどの美貌。
彼女こそ、リンドウの妻であり、スズの母親である、キキョウだった。
「母ちゃん!」
スズは駆け出し、キキョウに抱きつく。
嬉しさのあまり、泣きじゃくって顔を母に押し付ける。
「あらあら、寂しかったのかい」
キキョウはスズの頭を撫でる。
スズの泣きぶりはさらに激しくなった。
「だって、だって。母ちゃん、出てったと思ったのん。ウチは捨てられたと思ってたん」
「あら、私はちゃんと書き残しておいたわよ?」
キキョウは不思議そうな顔をする。
「いや、母さん。スズがこれを見たら、誤解するだろう」
父の言葉にスズはウンウンと頷く。
リンドウは置き手紙を見ていなかったが、キキョウの考えを理解していた。
キキョウが愛想を尽かして出て行ったのではなく、言葉通り、実家に帰っただけだと。
とある目的のために――。
だが、
申し訳ない気持ちになり、二人がかりでスズをなだめる。
「スズちゃん、ごめんね。父さんが説明してくれると思ってたのよ」
「父さんも悪かった。ちゃんと話しておくべきだった」
もし、リンドウが先に書き置きを発見していたら、それを見せてちゃんと説明していただろう。
だが、スズが先に発見して隠してしまったことで、その機会が失われたのだ。
楽観視していたことを二人とも反省する。
二人に慰められ、スズは落ち着きを取り戻した。
「なあ、母ちゃんは父ちゃんに愛想尽かしたんじゃないのん?」
「そんなこと、ありえないわよ」
我が子を安心させるように、笑顔を向ける。
「でも、そうねえ。もし、愛想を尽かすとしたら、それは、父さんがキモノ作りを止めたときかしら」
「なんでのん? 売り物にならんのに?」
「母さんはね、父さんのキモノに、そして、キモノを作る父さんに惚れたのよ」
「そうなん?」
「ええ、父さんにはキモノづくりに専念して欲しい。だから、母さんはそれを支えたいの。それが母さんの幸せなのよ」
「……わかったのん」
「スズちゃんも父さんのキモノ、綺麗だと思わない?」
「それは……」
戸惑いが揺れる。
スズも本当は父のキモノが大好きだった。
だけど、母にすべてを押し付け、売れないキモノを作り続ける父が許せず、その怒りはキモノにぶつけられるようになったのだ。
だが、母の気持ちを聞いて――。
「父ちゃん、ごめんのん。スズも本当は父さんのキモノ大好きのん」
長い間、心の底に溜まっていた思いがふわりと溶ける。
スズはリンドウに抱きついた。
「そうかそうか。父さん嬉しいぞ」
父子のわだかまりが氷解し、空気が和らいだ。
頭を撫でると、スズはくすぐったそうに笑顔を揺らす。
安心したリンドウは、キキョウに頭を下げる。
「母さん、済まなかったな」
「あらあら、謝られることなんてなにもないですよ? 違う言葉が欲しいですわ」
「ああ、そうだな。母さん、ありがとう」
「どういたしまして」
長年連れ添った二人にはそのやり取りで十分。
不思議に思ったスズが問いかける。
「なあ、どういうことのん?」
「そうだな、スズにも母さんの実家のことを教えるときが来たみたいだな」
キキョウはこの一ヶ月間、実家に戻っていた。
彼女の実家は王都に本店を構える大商会。
そこの大切な箱入り娘だったが、リンドウとの結婚を巡って大喧嘩。駆け落ち同然に逃げ出したのだった。
以来、実家とは断絶状態だったのだが、さすがにお金に困り果てて実家を頼ることにしたのだ。
それもすべて、リンドウのためを思って――。
「ちゃんと取り付けてきたわ。王家にも気に入っていただいて、これからは定期的に納入できるわよ」
「母ちゃん、それって……」
「ええ、女王様が父さんのキモノを気に入って下さったのよ。これからはお金には困らないわ」
キキョウが持ち出した大量のキモノ。
は手切れ金代わりに持ち去ったのではなく、売り込みのためだった。
リンドウの作るキモノ。
高額で庶民には手が届かない。
だが、常に新しく美しい物を求めていて、金に糸目をつけない王侯貴族であれば――。
キモノの品質については絶対の自信がある。
ただ、今まではツテがなかった。
リンドウがキモノ作りを続けられるなら、実家に頭を下げることなど、なんでもなかった。
自分の心配は杞憂だった――しかも、お金の問題も解決したのだ。スズは久し振りに心から笑うことができた。
「そうだ、母さん。母さんが頑張ってくれてる間、儂も頑張ったんだ」
「あらあら、それは楽しみね」
「ちょっと待っててくれ」
リンドウは奥に戻り、キモノ一式を持って来た。
キキョウが家を出てから作り始めた、最高級キモノ。
最初から売り物にするつもりはなかった。
このキモノはキキョウのためのもの。
自分のために実家に頭を下げてくれた彼女への、感謝の気持ちだった。
だから、一切、手を抜いていない。
最高級の素材に、できる限りの手を加えて、王侯貴族にも引けを取らない一品を仕上げたのだ。
「あらあら、素敵ね。スズちゃんはどう思う?」
「うわぁ~、綺麗のん」
姿見に映る母の美しさにスズは目を奪われる。
父のキモノに惚れたという母の気持ちが理解できた瞬間だった。
「なあ、父ちゃん。スズにもキモノ作ってのん!」
「心配かけたからな。とっておきのを作ってやるぞ」
「父ちゃん、ありがとなん!」
しばらく後――リンドウのキモノは王都の上級階級に大流行し、寝る暇もないほど忙しくなるのだが、それはまた別のお話。
◇◆◇◆◇◆◇
次回――『ピクニック』
8月12日更新です。
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