第十七話 天空を覆う影
「コバを、お願い!!」
サーシャの叫びが、願いが、僕の決意をより一層固める。
女の子の前で良い格好をしたい、という安易なヒーロー願望からではない。コバの身を案じるサーシャを見ていると、どうしようもなくたまらない気持ちになる。
薄々感じていた事だが、今はっきりと確信した。
僕は、サーシャに“姉さん”の面影を見出しているんだ――。
僕と、ナギ兄さんの幼馴染。彼女の名前は、《比良坂那美》。僕は“ナミ姉さん”と呼んでいた。
年上でありながら童顔で背が低く、赤毛のショートボブが印象的な、可愛い女の子だった。
温厚な兄さんとは対象的に性格は勝ち気で男勝り、それに短気で喧嘩っ早くもあり、幼い時分には他の男子を相手に取っ組み合いの大喧嘩を起こしている場面もしばしば見受けられた。僕もうっかり粗相をした日には容赦なく折檻されたものだ。
しかしながら、普段の彼女は優しくて気風も良く、周囲を引っ張る姉御肌的な人物であり、お菓子作りが趣味という、女の子らしい一面もあった。
僕はよく可愛がられた。時には強引に振り回されたり、鉄拳制裁されたりもしたけれど、まるで本当の弟のように接してくれた。
彼女が兄さんを好いていると気付いた時には応援した。将来この人が本当の義姉になるんだと思ったら、心の底から嬉しさがこみ上げてきた。
家族も同然の、大切な人だった。永遠に自分の傍に居てくれると思っていた。兄さんと一緒に失踪してしまうまでは…………。
サーシャを見ていると、姉さんを思い出す。
容姿は全く違う。性格も、物怖じしない部分を除けばそこまで似ている訳では無い。それでもだ。
夜空の星を眺めて自分の話をするサーシャ。僕をからかった子供達を叱るサーシャ。僕の手を引いて人混みを進むサーシャ。コバを庇い、震える彼をあやすサーシャ。
僕の中で、そのいずれもが姉さんの姿と重なる。
それだけで十分だ。
サーシャの、友達のために、僕はコバを助ける――。
既に日は沈んでいた。
上を見上げれば、昨夜の如く雲のない黒天とそこに瞬く数々の星。本来であれば、朝日が活力を与えてくれるのと同様、夜は人々に安息をもたらした筈だ。
だが今のマグ・トレドには、それを享受する余裕のある人間は誰一人居ないであろう。
大きな風呂敷包みを背負って一目散へと門へ走る者、窓から半身を乗り出して空を伺う者、狼狽して右往左往する者、ドアも窓も締め切って家に立て籠もる者、顔を覆ってその場にへたり込む者、声を張り上げて彼らを鎮めようとする兵士。
絶え間なく鳴り響く鐘の音で、街は混乱の坩堝と化していた。この中を掻い潜って教会へと辿り着くのは困難だが、それでもやるしかない。
僕は肚をくくり、先程までの記憶を頼りに裏路地へと入っていった。
「静まれ! 静まれぃ、皆の衆!! 領主様よりのお達しだ! 全員、家に帰り戸を閉じよ! みだりに表に出て来てはならん! 良いな! 応じぬ者は、その場で処断される事も覚悟せよ!! 繰り返す……」
混乱を収束させようと駆け回る兵士達の大声が聴こえてきて、僕は身を震わせた。彼らに見つかるのはヤバい。
僕は息を殺し、身をかがめてなるべく足音を立てないよう慎重に歩みを進めた。
しかし、それから数分と経たない内に『それ』は起こった。
「え…………?」
突然、周囲が闇に包まれた。薄暗くとも星明かりのお陰でどうにか確保できていた視界が、殆ど奪われた。
なぜ?と思い上を見上げる。そこにあった『モノ』。
僕は最初、それを“川”だと思った。どす黒く濁った川の流れが宙に浮かんでいて、それを見ているのだ、と。馬鹿げた考えだと心の一方で思いながら。
だが数秒もせずに自分の間違いに気付く。川の流れに見えたのは、鱗だ。巨大な鱗の群れが空を飛んでいるのだ。
そして、そのどん詰まりに現れるトカゲのような後ろ足と尾。現実を認識した脳が答えを導き出す前に、それらは頭上を過ぎ去っていった。
直後に巻き起こる突風。人の身を遥かに上回る巨体が通過した後の余韻が、矮小な僕の身体を容赦なく殴りつける。
「うわっ!?」
耐えられずにその場に尻餅をつき、目を閉じて腕で顔を庇いながらひたすら耐える。ようやく風が止むと、僕は大きく息をついた。激しい動悸がしている事に今更ながら気付く。
「い、い、今のは……! りゅ、りゅ……!」
答えを先回りするかのように巨体の向かった先から咆哮が轟く。耳にするだけで命を削り取られそうになるほど、力と迫力に満ちている。昔、兄さんと姉さんに連れられて出掛けた動物園でライオンが吠えるのを見た事があるが、あれとはまるで比較にならない。この世に棲むどんな生物でも、あれほどの雄叫びは上げられまい。
「竜だ……! 竜が、この街の真上に……!?」
全貌を見てもいないのにすっかり呑まれてしまった僕は、立ち上がるのも忘れてただ呆然としていた。
「(ダメだ……しっかりしないと! コバを引き取って、サーシャのところに戻らないと……!)」
鐘があんなにも喧しく鳴っていた理由が分かった。
竜の飛来。
正直、とてつもなく怖い。この先何が起こるか想像もつかない。それでも、考えるのを放棄してへたり込んでいてはならない。
自分に喝を入れ、地面に手をついて立ち上がろうとした時だ。
「おい!」
苛立った声が頭上に被せられる。慌てて顔を上げると、兵士が二人、肩を怒らせてこちらを見下ろしていた。
「市民よ、通達が聴こえなかったのか? 今は外出禁止だ! 早く家に戻れ!」
左の兵士さんが顔を真っ赤に染めて怒りの声を浴びせてくる。僕は咄嗟に芝居を打った。
「ご、ごめんなさい! 父さんのお使いで出掛けてて、帰る途中だったんです! そしたら、頭の上を竜が……!」
「分かっている。心配するな、竜は俺達がなんとかする! とにかくお前は早く帰れ! 父親も気が気じゃないだろう? 傍に付いててやれ」
「は、はい! ありがとうございますっ! それでは……!」
僕は軽くお辞儀をして、その場を後にしようとした。
「……待て」
三歩と歩かないで、背後から呼び止められる。ギクリ、と足が止まる。恐る恐る振り返ると、さっきまで黙っていた右の兵士さんが僕を睨み付けていた。
「お前、名前は? どの区に住んでいる? 父親の使いと言ったが、何処まで行って何をしてきた? 身元を証明できる物を何か持っているか?」
「あ、う……!」
矢継ぎ早に質問され、僕はあえいで言葉に詰まる。
「どうした? 答えられないのか?」
右の兵士さんの目がますます細まった。
「おい、そんな事訊いてる場合か!? 他にもフラフラと外出てるヤツが居るかも知れないんだ、次行くぞ!」
左の兵士さんが、相方の腕を掴んでもう行くように促しているが、右の兵士さんの態度は変わらない。
「こいつ怪しいぞ。俺はこの辺りの市民の顔なら大体知ってるが、こいつには見覚えが無い。この騒ぎに乗じて紛れ込んだ間者かも知れない」
「間者、だと……!?」
左の兵士さんの目にも疑惑の色が浮かぶ。
これは……まずい。
「答えろ! お前は何処の者だ!?」
二人の兵士が剣の柄に手を掛ける。少しでもこちらが怪しい動きを取れば、たちまち白刃が鞘から抜き放たれるだろう。
詰んだかも知れない。父親の使いだと宣った手前、今更正直に言っても信じてはもらえまい。
「(どうしよう……!?)」
妙案など浮かばす、僕はただ立ち尽くすしかなかった――。
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