第十四・五話 国境~地返し砦にて~
マグ・トレドからアカリア川を挟んで北東。
フォモール帝国との国境沿いに建てられたその城砦、人呼んで『地返し砦』では、連日同じく多数の兵士達が緊張感を漲らせて詰めていた。
「エリオット卿、そろそろ日没です」
傍らに控えていた副官が、豪奢な甲冑と兜を纏った指揮官と思しき男に告げる。ただの報告ではなく、そこには「そろそろ松明を焚かれては如何ですか?」という進言も含まれていた。
「うむ」
エリオットと呼ばれた指揮官は、そう言ってただ頷いた。
副官は黄色に染められた旗を手に城壁に登ると、大きく左右にそれを振った。
すぐに、城砦内のあちこちに火が灯り始める。兵士達の動きは機敏で無駄がなく、練度の高さを伺わせた。
やがて、忍び寄ってくる宵闇を打ち消さんが如く、城砦の内外は昼間のような明るさで満ちる。
その様子を眺めつつ、エリオットは戻ってきた副官に尋ねる。
「油の備蓄は如何程ある?」
「残り二千石。不足分をすぐに手配するよう、既にマグ・トレドへ使いを出しております」
副官は淀みなく答える。夜毎にこれだけの松明を灯していれば当然大量の油が必要になるが、漁業の盛んなマグ・トレドでは油の確保は比較的容易であり、これまで供給が途絶えた事は無い。おかげで夜陰に乗じて良からぬ動きをしようとする者が居れば、いつでもすぐに分かる。
エリオットは、灯火で照らされた城砦内を隈なく見回した。
城壁の所々は傷んでおり、崩れかかったままの箇所も至るところにある。補修に手が回りきっていないのだ。
十年前に大戦が始まった時、この城砦は真っ先に標的とされ、帝国軍の激しい攻撃に遭い必死の抗戦も虚しくあえなく陥落した。破壊されたこの拠点を再び使えるようにするのに随分と苦労したものだ。今ではどうにか最低限砦としての機能を取り戻しているものの、防衛戦で役立つかは怪しいものがある。本格的な修築が出来れば良いのだが、農村の復興も思うように捗らないマグ・トレドの今の経済状況では望み薄だろう。精々魚油だけでもありがたいと思わねば。
ここは帝国からマグ・トレドを守る最前線の重要拠点だ。どだい現状防衛に適していなくとも、簡単に放棄する事は許されない。
エリオットはグラスと並んでマグ・トレドの双璧とまで呼ばれた程の将軍である。グラス亡き今、都市の安全は自分の双肩に掛かっていると強く自負している。城砦の警備、兵士の訓練、敵情の偵探、全てにおいて怠りは無い。たとえ砦がボロボロであろうと、再び帝国に付け入る隙など決して与えるものか。
「エリオット卿、お疲れではありませんか?」
密かに決意を新たにしているエリオットに何か感じたのか、珍しく副官が気遣いの言葉を掛けてくる。エリオットは苦笑いで答えた。
「珍しいではないか、そなたが無駄口をたたくとはな」
「いえ、決して無駄口ではありません。連日連夜一切気を緩めず、将としての務めを果たされるその御姿は大変ご立派であらせられます。私のみならず、全兵士がエリオット卿を手本としております」
副官は謹厳実直を絵に描いたような真面目そのものの顔で、まっすぐエリオットを見て続けた。
「しかしながら、満足に休息もお取りにならない毎日では、万が一事が起きた際に思わぬ不覚を取らぬとも限りません。時にはお身体を労る事も必要なのでは、と愚考する次第にございます」
「……………………」
出過ぎた態度だ、と叱る事も出来た。しかし、真心の込もった言葉である。エリオットを敬愛するがゆえの僭越である。それが分からないエリオットではなかった。
「ありがとう。そなたは目配りもしっかりしており、行動も早く、他人を労る心も篤い。良い部下に恵まれたな、私は」
エリオットが柔らかく微笑みかけると、副官の顔が僅かに朱に染まった。
壮年を過ぎたエリオットに対し、副官の方はまだ三十路にも至っていない若手である。もしかしたらエリオットに対し、父親にも似た感覚を抱いているのかも知れない。
エリオットが言葉に甘え、兜を脱ごうとしたまさにその時だ。
「報告致します! 東の空が何やら不穏でございます!!」
和やかな空気が一瞬で張り詰める。副官が険しい表情で伝令に駆けてきた兵士を問いただす。
「報告は詳らかにせよ! 一体何があった!?」
「はっ! ヒメル山付近の空で、俄に巨大な黒雲が発生致しました! 雷を纏っており、尋常な様子では無いと思いましたのでご報告に上がりました!」
言われてエリオットは耳を済ませる。確かに遠くの方から雷鳴のような音が断続的に聴こえてくる。
「よし、確認しよう。ヒメル山の方角だな?」
言うが早いか、エリオットは東の城壁に向かって走り出す。すぐに副官も後を追う。
年齢を感じさせない身軽さで石段を駆け上がり、城壁の上に立つと、なるほど東の空が黒い。宵の闇とはまた違う、星々の瞬きすらも飲み込む異質な黒さだ。目を細めると、ヒメル山周辺の空でその漆黒が渦巻いているのが分かる。
「エリオット卿! あれは……!?」
横に並んだ副官が驚愕の声を放つ。巨大な黒雲は二度、三度と稲光を放ち、轟々と唸りを上げている。いつもは遠目に薄っすらと見えるだけのヒメル山が、今夜は何故かやけに近く感じられた。
エリオットは全身で嫌な予感を感じていた。ヒメル山という場所は、五年前の決戦を経験した身からすれば一種のタブーだ。そう言えば、“あの時”もこんな風に空模様が崩れていた。
「まさか…………!」
エリオットは、副官の声に返事をするのも忘れたかのようにヒメル山の方角を凝視する。けたたましく雷鳴を轟かせ、ぐるぐると竜巻のようにとぐろを巻く黒雲。
やがて、その中から歪な固形物の輪郭が姿を表した。雲の隙間から見える、左右に大きく広げられた翼。
「――ッッ!?」
息が止まる。遠目でもはっきりと分かった。あれは――――
「エリオット卿!?」
悲鳴にも似た副官の声が響くと同時に、城砦の上を凄まじい速さで巨大な影が通り過ぎる。一瞬遅れて突風が城壁の上に立つ者達を襲った。
「うわっ!?」
「なんだ!? どうした!?」
「て、敵襲かッ!?」
精強で知られるエリオット配下の兵士達も、何が起きたかまるで把握出来ずに混乱する。
部下の恐慌に気付いた副官がそれを鎮静しようとする前に、エリオットが大声を上げた。
「全兵士に告ぐ!! 直ちに敵襲の狼煙を上げよ!! その後戦闘態勢を整え、城外に集結すべし!!! 急げ!!!」
このエリオットの声に、兵士達の惑乱がピタリと止む。何を命令されたか理解するまで数秒を要した後、彼らはさっと元の精鋭の顔に戻り、秩序だって素早く動き始めた。
「副官! 大急ぎでマグ・トレドへ早馬を送れ!」
突然のエリオットの指示に放心状態だった副官も、この一言で我を取り戻し直立不動の姿勢を取った。
「は、はっ! して内容は!?」
エリオットは“間に合わないだろう”と内心思いつつ、狼煙だけでは情報が足りぬと判断し簡潔に告げた。
「『ヒメル山より竜が出現!! まっすぐマグ・トレドに向かっているものと判断せり!! 至急防衛の準備を整えられたし!!!』」
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