第十四話 竜始教
遥か昔、人が誕生するずっとずっと前の時代――
開闢以来、世界は未だ生命無く、ただ何処までも続く大海原と空を覆う黒雲のみが揺蕩っていた。
海は雲に語りかけた。
「私は数多の子を宿せます。貴方の雷を、私に注ぎ込んで下されば。ああ、でも、産み出す生命の受け皿が無い。なんと哀しいことか」
雲も海に囁きかけた。
「私は幾多の種を作れます。私の雷を、貴女が受け入れさえすれば。ああ、でも、這い出る生命の揺り籠が無い。なんと虚しいことか」
頭を悩まし、嘆く両者。もどかしさだけが募ってゆく。
その時だ。彼方より一条の光が差し込んだかと思うと、その光の波をかき分けて、一頭の竜が現れた。
竜は大きな一対の翼をはためかせ、雲と海の間をぐるぐる回ると不思議そうに問う。
「其処達は何をそんなに愁うのか?」
海は答える。
「陸が無い。我が子らが住める陸が」
雲も答える。
「大地が欲しい。我が子らを育む大地を」
竜は頷き、高らかに告げた。
「よかろう、ならば我が身体でその悲願を叶えん。我は世界に呼ばれし者。其処達の佑けが我が使命也。万乗の子らを乗せ、絶えず恵みを与えよう」
天を裂かんばかりの咆哮と共に、竜はためらいなくその身を海へと投じた。
するとどうだ。たちまちにして竜の胴体は大地に、鱗は土に、牙は岩に、翼は木々に、脚は地殻に、尾は山に、余す所無く大陸の姿に変じたではないか。
海と雲は歓びの声を挙げ、生命の営みを行った。
雲が落とす万雷を海が受け止める度に多くの生命が産まれ、それらはやがて大陸と成った竜に上陸し、文明を築いた。
まさしく竜こそが、我々を育み栄えさせた『揺り籠』であるのだ――――。
「…………以上が、《竜始教》が説いたこの世の成り立ちです」
恍惚とした表情を浮かべ、感情どころか魂すら込められたような熱い口調で語っていたジェイデン司祭が、酔いが醒めたようにそう締めくくった。
「あ、ありがとう、ございます」
僕はぎこちなくそう答えるだけで一杯一杯だった。
まさか竜の彫像について訊いただけでこんなにも熱が入るとは。竜の話題は、この人のスイッチだったみたいだ。
「素晴らしいでしょう? 我々人類やエルフ、ドワーフにオーク、ゴブリンに至るまで、この大地に生けとし生きる者は全て《始祖の竜》の上に立って今日の繁栄を築いてきたのです。まさしく、この大地は《竜の揺り籠》なのですよ!」
ジェイデン司祭の様子が再び興奮したものに染まってゆく。どうしよう?話を振った手前、適当に流すのも悪いし……。
「な、中々ロマンがあると思います……よ。竜が大陸に変わったなんて面白い説ですね」
仕方なく同意を示す。引き気味なのを隠せていないのはご愛嬌ということで。
「分かっていただけますか!?」
くわっ! と目を見開き、ジェイデン司祭は僕に詰め寄ってきた。優しげな風貌からは想像もできなかった迫力である。思わず気圧されて本当に一歩引いてしまった。
「はっはっは! いやはやこれはこれは、まだお若いのに勇気があるだけでなく柔軟で聡明なお方だ! このジェイデン、心より敬服致しますよ! はっはっは!」
社交辞令なのに気付いていないのか、それとも気付いていて言ってるのか分からなかったけど、とにかくジェイデン司祭はやたら上機嫌だ。
というか、褒めすぎである。そんなに自分の説法に賛同してくれる人が少なかったのだろうか?
と、愉快げに笑っていたジェイデン司祭が、ふと肩を落としてため息を吐いた。
「マグ・トレドの住民達も、皆あなたのように考えて下さればよろしいんですがね。かつては《竜始教》の教えを誰もが信じていたのに、近頃はすっかり信仰心も廃れてしまいました」
「この国って、竜を信仰していたんですか?」
「左様。と言ってもそれほど大袈裟なものではありません。《始祖の竜》に感謝し、祈りを捧げる。その末裔である今の竜達にも畏敬の念を忘れない。そのくらいのものです」
「竜……居るんですか? この国に」
竜と聴いて、心が僅かに踊りだすのを禁じえない。グリム・ハウンド、ゴブリン。ファンタジーの中でしか見かけなかった生き物が、この世界には確かに存在している。ならば竜……ドラゴンだって実際にお目にかかれるかも知れない。
男の子にとってドラゴンは強さの象徴、空想の中に抱くあこがれだ。わくわくしない筈がない。
果たして、ジェイデン司祭の答えは期待通りのものだった。
「ええ、確かに居ますよ。私も若い頃に何度か空を飛んでいるのを見たことがありますから」
「本当ですか!? 凄い……! や、やっぱり強いんですか!?」
「勿論です! ……とは言っても、竜は温厚な種族ですから、無闇矢鱈に暴れたりはしません。彼らは普段から前人未到の秘境で暮らし、人前に姿を現す事自体稀なのです」
だから竜が実際に戦っているところは一度もこの目で見てはいないのですがね、とジェイデン司祭は苦笑いを交えた。
「人を襲うなんて事も、こちら側から挑発でもしない限り滅多にありません。彼らは母なる《始祖の竜》の直系の子孫ですから。地上の生き物達を見守る、言わば守護者なのですよ」
「なるほど……!」
強大な力を持っていながら、いたずらにそれを振るうような真似はしない。まさに大物の格じゃないか。竜が信仰の対象になっているのも頷ける話だ。
否応にも強まる胸の高鳴りに、しかし水を浴びせる声があった。
「でも、それじゃあどうして、《
「え…………?」
僕はぽかんとしてサーシャを見た。依然としてコバの背中を撫でつつ、彼女は不思議そうに口を開く。
「ほら、“ヒメル山の戦い”よ。五年前に行われた最終決戦。ナオルも知ってるでしょ?」
「あ……」
マルヴァスさんが言っていたアレか。大陸の中央にあるヒメル山で連合軍と帝国軍が激しくぶつかり、双方多大な犠牲を払った末に連合軍が勝利したって話だったな確か。
「えっと、一応知ってはいるけど聞きかじっただけであまり詳しいところは知らない、かな。かなり激しい戦いだったって…………あ」
昨日の記憶を辿るついでにもうひとつ思い出した。《棕櫚の翼》とは、先程ローリスが市場で荒ぶっている時に口走った単語だ。
その時、彼はこう言っていた。『“ヒメル山の戦い”の最中に、山頂から《棕櫚の翼》が飛来して、敵も味方も区別無く焼いた』と。
(《棕櫚の翼》って、竜の事だったのか……)
サーシャやジェイデン司祭には聴こえないよう、口の中だけで呟いた。
「むぅ……それは私も不可解に感じていました。戦地に居た兵士達の話では、《棕櫚の翼》は漆黒の巨大な竜との事でしたが、一体何故それが現れ、しかも両軍共を襲ったのか……」
「戦いが起きてる最中に乱入してきたんですよね? 誰かが勢い余ってその竜に襲いかかったとかじゃないんですか?」
僕の指摘に、ジェイデン司祭は首を振る。
「《棕櫚の翼》はヒメル山の頂から降りてきたのです。あの山もまた秘境のひとつ。人の身で山頂まで踏破した者などおりません。頂に至る山合には常に嵐が起こり、生ける者を寄せ付けないのです。誰かが《棕櫚の翼》に刃を向けた可能性は極めて低いでしょう」
「そうなんですか……。戦いが終わった後、その《棕櫚の翼》はどうしたんですか?」
「再びヒメル山の頂に去っていったと聴いております。その後、《棕櫚の翼》を見たものはおりません」
ジェイデン司祭は眉間にシワを寄せ、顎に手を当てながら唸った。
「正直なところ、“ヒメル山の戦い”には勝者など居ないと言っても過言ではありません。《棕櫚の翼》によって敵も味方も関係なく虐殺され、折り重なるように屍が積み重なってゆく有様は、実際にその場を見ていなくとも身が震えるような光景だと分かります。ましてや目の当たりにした両軍の兵士達は尚更です。お互いに疲弊しきり、戦意も尽き果てて終戦となったのです。神と言っても良い“始祖の竜”の末裔がこんな暴虐を働くとは信じ難いのですが……」
「ひょっとして、
ぞくり、と。平坦を通り越して温度すら感じられない程の抑揚のない声だった。
僕は、それがサーシャの放ったものだとしばらくの間分からなかった。
「ほら、世の乱れを直すっていう《渡り人》だって結局は来なかったじゃないですか。《始祖竜》様だって、戦争ばっかりな世の中にガッカリしちゃったから、それで自分の子孫に『滅ぼしちゃえ』って命令したとか」
淡々と冷えた口調で感情を殺した言葉を吐き出してゆくサーシャ。いつもの陽気なイメージとは全くそぐわない姿だった。
「サーシャ…………」
ジェイデン司祭が何かを言いかけ、諦めたかのように首を振る。サーシャに抱き締められているコバも、腕の中からサーシャを不安げに見上げる。
サーシャはそんな彼らを見ず、祭壇にある竜の彫像をじっと見つめていた。
僕も、その視線を追ってもう一度そちらに目を向ける。
立派な大理石の竜は、ただ厳かにそこにあるだけだった…………。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます