第十一話 無我の一閃
人気のない裏通りを、サーシャに手を引かれながら全力で疾駆する。あのゴブリン――コバも、真横で息を荒くしながら必死に足を動かしていた。だが……
「逃さねぇぞぉぉぉ!!!」
ローリスの怒号がまたしてもすぐ背後から上がる。さっきから全く彼を引き離せていない。
「しつこいわね!」
駆けながらサーシャが舌打ちする。入り組んだ路地の中なら撒けると思っていたが、とんだ誤算だったのだろう。
「ねぇ……! 衛兵さんとか……! 探した方が……っ!」
息も絶え絶えに僕は提案した。生死を賭けた追いかけっこなら昨日、この世界に来たばかりでもやったが、今はあの時とは違い、街中だ。マルヴァスさんじゃなくても、市民を凶刃から護るのを己が使命としている人は沢山居る。
しかしサーシャは激しくかぶりを振る。首の動きに合わせて彼女の亜麻色の髪がふわふわと舞う。
「ダメよ! 多分、彼らはコバの事情を知らない! 彼らを頼ったら、コバがどうなるか分からない!!」
僕は隣を走るコバに目をやる。コバは悲痛な表情を浮かべ、視線を地面に落とした。
このゴブリンとサーシャがどんな関係にあるのか、その辺りの詳しい事情は僕だってまだ知らない。コバはグラスという騎士の奴隷だったらしいが、今はもうその人は亡くなり、本人も死んだと思われていたようだ。
主人を失った奴隷がどんな扱いを受けるのか。拙い僕の知識では想像するしかないが、少なくとも一般市民と同じ権利を持っているとは考えにくい。安易に官憲を頼ればコバは強制収容所送り、という事態にもなりかねないのだろう。そんなのは、ダメだ。
サーシャは彼を家族と呼び、命を投げ出してまで救おうとした。
サーシャにとって、彼が掛け替えのない存在である事は明白だ。そして、僕にとってもそれだけで十分だった。
「分かったよ……! でも、それじゃどうやって……! アイツを、振り切る……!?」
「この先に小さな教会があるの! そこの司祭様なら、きっとあたし達を助けてくれる! だから、何とかそこまで逃げ切りましょう!」
「りょ、了解……っ!」
正直、ローリスのあの激昂具合からして(そうなったのは僕のせいだけど……)、高貴な聖職者様の有り難いお説教が通じるのかどうか甚だ疑問ではあるが、他に有効な手立てもない。腰の短剣を使いこなせるくらいに僕が強かったなら、とまたも無力感が頭をもたげてくる。つくづく自分が恨めしい。
……と、前面に意識を戻すと同時に、すぐそこに突き当たりの壁が迫ってきている光景が視界に飛び込んできた。
「い、行き止まりっ!?」
「大丈夫! 右に小道があるから!」
自信に満ちたサーシャの言葉を信じて、僕は居竦まりそうになった脚に活を入れ、落ちかけた速力を元に戻す。
すぐに彼女の正しさが証明された。土造りの家屋の右側に続く脇道が見える。僕達は脇目も振らずそこに駆け込んだ。
「うわっ!?」
「きゃっ!?」
途端に積み上がった木箱が目の前に現れて、二人して慌てて身を躱した。幸いにもぶつからずに済んだ、と思った次の瞬間……
「あいたっ!!?」
苦痛の訴える声と共に激しい衝突音が響き、僕とサーシャは驚いて思わず足を止めた。
急いで振り返る。舞い上がる土埃の中に浮かび上がったのは、うつ伏せになって地面に倒れ込んでいるコバの姿。
「コバ!!?」
サーシャが握っていた僕の手を離してコバに駆け寄る。
「あ…………」
その瞬間、先程まで意識の片隅に追いやっていた感覚が急速に肥大化してくる。
狂気を孕んだローリスの眼光。大上段に構えられた大剣。僕めがけて振り下ろされる『ソレ』。
サーシャに手を引かれなければ死んでいた。サーシャの手が、恐怖心を緩和してくれた。サーシャと手を携えて走る事で、自分に迫る殺意を跳ね除けていた。
ところが今、彼女の手は僕を離し、あの薄汚いゴブリンに向けられて…………。
そんな僕の胸中にサーシャが気付く筈も無く、彼女はコバの傍らにしゃがみ込んでその腕を掴んだ。
「も、申し訳あ……」
「謝らなくて良いから立って! 早く!!」
コバの謝罪を制止し、急いで引き起こそうとするサーシャ。
……いけない。何やってるんだ、早く僕も……と思った時、今しがた曲がった角から染み出すように影が顔を覗かせた。
「ガキ共が、もう逃さねぇ……!」
「ローリス……!」
サーシャが息を呑む。現れた巨躯の元傭兵は、追い詰めた獲物をいたぶるかのように一歩ずつゆっくりと距離を詰めてくる。
彼の姿はこちらからは完全な逆光となっており、まるで黒衣を纏っているかの如く全身が影に覆われていた。闇の中で、狂気と怒気に染まりきった瞳と、握りしめた剣だけがギラギラと光っている。
「う……あ……!」
喉からはそんな情けない声しか出ない。死神を連想させるような佇まいに、僕はただただ呑まれるばかりだった。
射抜くようなローリスの眼光は、しかし僕ではなく地面にしゃがみ込むサーシャとコバに向けられている。二人共、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまっている。心中に渦巻く恐怖は僕以上に違いない。
「まずは、テメェらからだ……!」
低い呻き声のような呪詛を吐き出し、ローリスがおもむろに大剣を構える。僕を斬ろうとした時と同じ、大上段の構えだ。
サーシャが、斬られる。今のローリスにはもう、言葉は届かない。さっきと同じように飛び出しても、あの剣は止まらない。直感的にそれを理解した。
「っ! 逃げて! ナオルっ!!」
金縛りが解けたように我に返ったサーシャがそう叫ぶ。言い終えると同時に、彼女はコバを庇うように上から覆いかぶさった。
「――っ!!?」
その瞬間、僕の身に掛けられた呪縛も解かれる。
そして…………
僕は腰の短剣を抜き放ち、ローリス目掛けて突進した。
自分でも驚く程冷静だった。突然勇気が湧いたからじゃない。さっき二人を庇った時のように頭が真っ白になったからでもない。ましてや捨て鉢になっての行動とも違う。強いて言うなら、今自分が何をすべきなのかがはっきりと見えて、是非を考えるよりも先にそれが僕自身を衝き動かしたかのような、そんな感覚。
僕がサーシャの前に躍り出るのと同時に、大上段から僕の腕二本分以上はある分厚い剣身が振り下ろされる。
僕は、本能的に短剣を下から上へと切り上げた。
大剣と短剣がぶつかり合う一瞬。それがやけに、はっきりと網膜に焼き付いた。
大剣に込められた力が、短剣の刃と柄を通じて僕の腕へと伝播する。僅かに痺れるような感覚。手応えはそれだけだった。
ローリスの剣が、短剣の当たった箇所から真っ二つに折れた。切り離された先の部分が、あらぬ軌道を描いて明後日の方向へ飛んでゆく。数秒遅れて、ローリスの背後の地面にそれは突き刺さった。
「なっ…………!?」
ローリスは愕然とした様子で、恐らくは長年苦楽を共にしたであろう相棒の、変わり果てた姿を見つめた。欠けた剣身が陽光を反射して彼の顔を照らし出す。信じられないものを見るかのような表情だった。
「……………………」
僕は無言で、野球でホームラン宣言をするみたいに右手だけで短剣を掲げ、ローリスの喉元に突き付ける。その刃は、マルヴァスさんが振るった時と同じく蒼い光を灯していた。
彼の顎が上がり、額からは汗が吹き出す。悔しげに睨み付けてくる視線を跳ね返すように、僕は口を開いた。
「引き下がってください。これはドワーフの技術で鍛えられた魔法の短剣です。どんな物質でも、少し当たるだけで紙のように……いえ、木の葉のように切り裂く事が出来ますよ」
「テメェ、そんなもんを隠し持ってやがったのか……!」
「僕は本気です。まだやる気なら、たとえ丸腰になったあなたでも、容赦はしません」
僕はローリスの目を見て、はっきりと告げた。
「サーシャに、僕の友達に危害を加えるなら、僕は絶対にそれを許さない」
恐ろしく冷えた声だった。出そうと思えばこんな声も出せるのかと、心の何処かで驚く自分が居る。
「……ちっ! このままで済むと思うんじゃねェぞ!!」
捨て台詞を吐き捨てると、ローリスは一歩後ずさり、身を翻して瞬く間に角の向こうへと消える。
その足音が遠ざかり、聴こえなくなるまで、僕はずっと同じ姿勢を保ち続けた。
「…………………………はぁ〜〜〜〜〜っっ!!」
ようやく安全だと確信した瞬間、僕の緊張は一気に解け、肺の空気を全て吐き出しながら腰が抜けるようにその場にへたり込んだ。心臓が凄まじい勢いで早鐘を打っていた事に今更ながら気付いた。
「はぁ…! はぁ…! はぁ…! はぁ…! はぁ…! ははっ……!」
呼吸が荒くなり、息が苦しい。それでも、達成感やら安堵感やらが心の底から湧いてきて、喉の奥から自然と笑い声が溢れる。
そんな僕の目の前に、顔をくしゃくしゃに歪めたサーシャがしゃがみ込む。
「ナオル……。ありがとう……っ!」
サーシャは両手で僕の手を取り、感極まったようにお礼の言葉を述べる。その手の甲に、ひとつふたつと涙の雫が零れ落ちた。
僕は笑みを浮かべつつ深く頷き、コバの方を振り返る。
コバは、怯えたような、困惑したような、複雑な顔で僕を見ているだけだった。
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