第33話 関数/一定の条件
臨時の理事会で時村が新たな理事長に就任することが決まった時、山崎澄夫は「万葉の杜 香久山」の採用面接に臨んでいた。二日酔いの施設長の向井は淡々と、志望動機とこれまでの経歴、趣味や特技など、形式的な質問を投げかけ、5分ほどで切り上げた。
山崎は介護スタッフとしてではなく、総合職としての中途採用に応募していた。介護や福祉関連の資格は持っていない。向井にとっては、総合職であろうがなかろうがどちらでもよかったが、介護スタッフに応募してくれれば、採用面接は奈良で終わらせることができたのである。グループにごたごたがあるなかで、報告をいちいち上にあげなければならず、本音では面倒くさいと思っていた。
山崎が二宮メディカル・ホスピタリティの内部告発の動画を目にしたのは、向井の部下と面接の日程調整をしていた頃である。二宮麻友からは、しばらく動画の制作に専念できる状況にないとのメッセージが届いた。山崎は、私的流用なんてよくある話だし、君のせいではないから気にする必要はない、と返信していた。
彼女の母が経営していた法人の採用面接に臨もうとしているのは、あえて伏せておいた。
もし正式に採用が決まったら、ユーチューバーを引退すると宣言し、それから彼女に事情を知らせようと考えている。自分の代わりはいくらでもいるだろうし、自分にしかできないスキルがある訳でもない。介護の世界に飛び込むのはむしろ、自分を再生させるための好機なのだろう。そう前向きにとらえている。
面接が終わると、山崎は母の様子を見に多目的室に向かった。車椅子に乗って窓に映る景色を眺める母は、相変わらず実の息子が訪れたと認識できずにいた。
壁のコルクボードには、小山内サミフの生前の姿がまだ飾られている。
初めて施設に来た時にはゆっくり見られなかったが、今は一人だ。ボードに張り付けられた木の葉の形の付箋には、それぞれに施設職員の手書きのメッセージが記されている。そのうちの1つが目にとまった。米粒よりも小さな文字が隙間なく並んでいる。
《サミフ。一緒に働いてくれて本当にありがとう。名前の由来を聞いた時、へえと思ったのを今でも覚えている。
君の母は専門学校で表計算ソフトの使い方を学んで就職した後、震災で故郷が壊滅的な被害を受けたのだという。善人も悪人もみな腹を空かせ、村の秩序が崩壊の一途をたどっていた時、母は都会の片隅でひたすら『SUMIF』という関数を使って統計分析の作業をしていた。仕事をしているうちに気持ちが落ち着いていったのだと母から聞かされたと言った。
選択した範囲内で、ある条件に合致したセルの数値を全部合算する。適当に付けられた名前なんですと笑っている君の顔が今でも浮かぶ。決して適当じゃないと思うよ。一定の条件を満たした者同士が、力を合わせることの大切さ。君は新人だったけど間違いなくプロフェッショナルで、プロフェッショナル同士が協働する意味を教えてくれた。どうか私達を見守っていてください。 向井》
「施設長の文章、気障(きざ)でしょう。アル中のくせに、ねえ」
通り掛かった施設の職員が山崎に声を掛けた。
「だからいつもお酒の臭いがしていたんですね」
「いつか問題になる思うてるんですけどね。私、サミフの通夜と告別式に一緒に行ったんですけど、あの日も酔っぱらって。帰りの新幹線のなかでもずっとビールを飲んで、静岡あたりで突然思い出したように、あの牧師適当なこと抜かしやがって、ぼけ、と大声で言って、みんなビクってなりましたよ。牧師の言うサミフの名前の由来がちゃうねん、と言うてね。あ、でも基本はいい人ですよ、社員思いですしね」
とみ子が2人の存在に気づき、何かを言いたげに口をもごもごと動かしたが、やがて窓の外に視線を向け直した。
ベランダに通じる扉は開けっ放しで、湿度の低いからっとした陽気が流れ込む。
施設職員が会釈してその場を立ち去ると、山崎は母と二人っきりになった。あまりにも幅の狭い母の両肩に、そっと手を下ろし、山崎は目を閉じた――。
《……一定の条件をクリアした者で構成される社会。と言いますけどね。体力と気力はどんどんなくなっていき、就ける仕事が次第になくなっていきます。
経済重視の社会を動かす部品が摩耗したら、新しい部品と交換されるだけなのです。交換する部品がなければ、別の製品に置き換わるのが常であって、それが自然の流れなのです。洗っても落ちない汚れだってありますし、元の形状に戻らないことなんて多々あるのです。
使い古した部品を循環的に再利用する社会を望んだところで、若い人は成長しますし、人は産まれていきますから、どうにもなりません。ならばなぜ死なないのかって? 逆に聞きますけど、あなたは口を半開きにしたまま、なぜ生きているのですか?
自分では死ねないからでしょう?
私という建物の中身は空虚で、突拍子もない夢想に揺すぶられ続けていますけど、それでも立ち続けています。本当に絶望したら、この建物を爆破しようかと思いますけど、まだできないでいます。
あなたから存在を認められない現状からは目を背きたくなりますが、昔のように、生きてさえいてくれればお母さんはそれだけでええから、と、いつか言ってくれそうな気もしています。
それまでは、お前など要らないのだという周囲の囁きに抗い続けるための熱源を、どうか共有させてください。
熱源が互いにないのなら、誰かと共有できるように、ふわふわな意識のなかにあってもどうか祈っていてください》
収穫中の田畑の上を雁が舞った。山崎とみ子の上半身が一瞬揺れたような気がした。頷いたのか、それともただ首の力を抜いたのかは分からなかった。
館内放送で名前が呼ばれた山崎は母と別れ、1階の事務室に向かった。奥の机で向井はプラモデルを組み立てていた。山崎の顔を見ると作業を中断し、1次試験は合格、次が最終面接で、群馬まで行ってもらうと伝え、往復の交通費の入った封筒を手渡した。
「せや、忘れてた。人事の人からな、向井は酔っぱらわんと元気でやっているかと聞かれたら、元気です、とだけ答えといてくれ。余計なこと言わんでいいから。よろしくな」
向井は山崎の背中をポンと叩いた。
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