第32話 髪をほどいて、ウィンク
秘書室長の能田は誰もいない事務室で頭を抱えていた。地元の新聞社やテレビ局からの取材が殺到したからではない。
税務捜査を受けたことによる地域住民からのクレームが相次いだからでもない。経営統合を予定していた医療法人の代表が、今回の一連の騒動を受け、二宮メディカル・ホスピタリティの統治体制に疑念を抱き、水面下で進めてきた統合に向けた協議を白紙撤回したいと伝えてきたのだ。
銀行出身の勝見にとっては理事長に留まる最大の動機が奪われることとなり、一身上の都合を理由に退任したいと申し出てきた。匙を投げた勝見は後任の理事長を指名することさえもしなかった。
火中の栗を拾う役目を誰が担うのか。このままでは、理事同士の議論が紛糾するのは目に見えている。勝見が留まる限りは自分は組織のなかを泳ぎ切れると読んでいたが、こうした辞め方をされると、他の理事を頼りにするしかない。黙っていれば不遇の時間が長きに渡ることとなりかねない。能田は恥は承知の上と考え、時村に電話を掛けた。
レストランで家族と食事をしていた時村は、ちょっと待ってくれと言ってトイレに向かい、店内の雑音を遠ざけた。
「おう、山梨の時以来じゃないか」
「時村さん、あの時は生意気なことを言ってすみませんでした」
「いや、いいんだよ」
時村の調子は普段と変わりがない。
「勝見、辞めるって聞いたけど本当?」
「はい、本人から直接聞きました」
「あいつがいなくなればちょっとはマシな組織になるだろう。お前も少しは考えが変わったか? スナックで勝見の青写真を絶賛していたよな」
「それは……。あの時はそうでしたが、今は違います。もっと、地元に足を付けないとというふうに……」
「その通りだよ。勝見が二宮理事長をそそのかしてやろうとしていたのは、経営が苦しくなってやるリストラとは違うんだ。筋肉質にするとかどうのとか言って、結局は自分らが得をするためのリストラなんだよ。しっかりみんなが働いて、結果が出ているのに人を切るんだぞ。それがいかに将来の遺恨となるか、お前分かってないだろう」
能田はただ時村の言葉を黙って聞くしかできなかった。
「まあいい。お前もまだこれからがあるし、ちょっと仕事しすぎたな。ストレスチェックも受けていないようだしな」
「すみません」
「で、用件はそれだけか?」
「あの、理事長の後任についてお話がしたくて」
「お前ごときが決めることじゃないだろう」
「分かっています。その、私としてはやはり時村さんに理事長になってもらいたくて」
時村は大声で笑い出した。笑いが止まらず咳き込んだ。
「そのつもりではいる。だけど、仮に俺がトップになったとしても、ポストの話はまた別だぞ。お前は休んだ方がいい。人事部長としての忠告だ。ポストの話はそれからだ。安心しろ。元気になったらバリバリ働かせるから。もういいか? 仕事の電話が長引くと家族がうるさいから切るぞ」
能田は受話器を置いて、ため息をついた。内部通告者が一体誰だったのか、時村に問いただすのを忘れてしまったが、再び電話を掛けなおす気にはならなかった。
──川本千夏は二宮麻友に送ったショートメッセージの返信がいつまで経ってもこないことに苛立っていた。高崎の商業施設に入居する化粧品店の販売スタッフの面接が予定通り終わったので、駅の近くまで車で迎えに来てほしいと伝えていたのだ。
痺れを切らして電話を掛けると、麻友は上機嫌だった。高校時代の同級生の実家でお酒を飲んでしまったのできょうは運転できないと言い、電車とタクシーを使ってこちらに来ないかと誘った。
川本はコンビニエンスストアで赤ワインとチーズを購入し、正美の実家に向かった。簡単な挨拶を済ました後、グラスワインで乾杯をした。川本と正美はすぐに打ち解けた。川本が知らない高校時代の麻友像を正美が語り、正美が知らない大学時代のそれを川本が語った。
「ねえ正美さ、あったらでいいんだけど。白髪染め持ってる?」
麻友は何かを決心したかのようだった。
「持っているけど、どうするの?」
「金髪やめる」
麻友はヘアゴムでまとめていた髪をほどき、ウィンクした。
「二宮、もしかして」
川本は、麻友がほんの僅かの時間に一気に10歳ほど歳をとったような印象を受けた。
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