第31話 浄瑠璃寺のジョン

 二宮麻友はシャワーを浴び、髪を乾かしていた。家を離れるまで使っていたダブルベッドに川本千夏を残し、一足早く目を覚ましていた。彼女の部屋は家事代行サービスのスタッフにより清潔さが保たれていた。机や本棚の位置は当時と変わりがなかった。


 社会人になって時間は経っていても、いつでも母は娘を受け入れる準備を整えていたのだと気付かされた。ダイニングの遮光カーテンを開けると、柔らかな秋空が目に飛び込んできた。窓の向こうには朝日に照らされた榛名山が、祈りを天に捧げる燭台のように赤く光っていた。母との面会時間は午前中に限られている。顔をみたいと思えばすぐに行ける距離でもある。


 病院経営がどれほど母の心身を蝕んだのかは想像ができない。能田が告げた経営の世界は自分の身から遠く離れたところにあって、そこで骨を粉にし身を砕くのは生半可な覚悟ではできない芸当のように感じる。


 その娘は経営者には向いていないと、母は考えていた。本当にそうなのだろうと麻友は思う。母の立場なら、娘のことなど無視をして、自分の老後のための準備を済ますことだってできるはずだ。再婚だってしようと思えばできたに違いない。にもかかわらず母は待ち続けていた。ずっと母でいたかったのだ。


 二宮直子は間もなく理事長の座を降りることになる。意識が戻ったとしても、新理事長主導で法人は売却されてしまう。残された時間は、一人の女性として、母として過ごさなければならない。麻友がいなければ、待ち受けるのは圧倒的な孤独だ。


 今の仕事は、母をそのような目に合わせてまでも、守らなければならないものなのだろうかと、榛名山を前に麻友は自問した。


 「おはよう。きょうはお母さんのところに行くの?」


 寝ぐせのひどい川本千夏が、ダイニングに通じる階段を下りて、あくびをしながら犬のようにそっと現れた。


 「考え中。能田がいたら嫌だなと思って」

 「行った方がいいよ。時間ってあるようでないから」


 川本は目を擦りながら洗面室の場所を麻友に尋ねてくる。


 「かわもっちゃんは今日はどうするの?」

 「バイト探す」

 「バイト?」

 「うん。高崎あたりで。決まるまで居候させて。いいよね。ありがとう二宮。やった」


 洗面室から水が流れる音が響く。


 「ミニチュアダックスフントだと思って、飼ってわん」

 「仕方がないね」


 母を交えた女3人の暮らしも悪くはない。川本がシャワーを浴びる間、麻友は山崎のスマートフォンに、母が倒れて群馬に帰ることになったことと、共同企画の話は当面、ペンディングにしてもらいたいとのメッセージを送った。自分自身の今後の活動については、しばらく時間を掛けて考えようと思った。


 二宮直子の意識は朦朧(もうろう)とした状態が続いていた。限られた面会時間で母の顔を見るのが麻友の日課になりつつあった。


 その日もいつもと同じように、車に乗って病院に向かった。病室で眠る母の白い顔を眺めようと、廊下を歩いていると、看護師や職員が自分を一瞥し、小声で何かを語りあっているような気がした。車やマンションをあてがわれていたことに、眉をひそめているのだろう。でも自分からお願いをした訳ではない。彼女らだって、同じような立場だったら、無意識のうちに便宜を享受していたかもしれないのだ。


 母の表情は一見、昨日や一昨日と大きな変化は感じられなかった。わずかの時間に自分ができることを考えた挙句、彼女が選んだ行動は、母の手を取り、目を閉じることだった。母の脈拍を感じ、心を落ち着かせていくうちに、顔を合わなかった時間、自分に起きたことを語り出す自分が現れる――。


 《……お母さん、公務員にならなくてごめんね。3回生だと、仲間の輪が出来上がっているでしょ。その輪に入るのは本当に大変だったし、最初から浮いてしまっていて、友達は結局できなかった。相手をしてくれたのは、かわもっちゃんぐらいだったし。


 履修しないといけない授業がたくさんあって大変だったけど、映画研究会が思いのほか楽しくて、月曜から土曜までの勉強しない時間はすべて映研に割いていたと思う。20分ぐらいの短編映画を3カ月に1本作ってね。最初は脇役だったけど、学園祭で上映した時に、アンケートでいい演技をしていたと評価されてね、2回目からは主役をやるようになったの。それまで主役だったかわもっちゃんはヒール役になって、もうひとりアスパというあだ名の3枚目がいて、ロケに行けるのが平日の授業の始まる前ぐらいしかなかったから、注意して観ると顔がみんな眠たそうなシーンが多いの。


 そんな生活が楽しくて、公務員試験の勉強を後回しにしているうちに、試験を受けるのは先でもいいかなと考えるようになってね。短編映画をインターネットで公開したら、今の事務所から声が掛かって、浮かれちゃったんだろうね、私。


 でも大学に行って、いい意味で視野は広がったと思ってる。お母さんと交わした十の約束は何とか守り通したけれど、そのうちの『異性との付き合い』については、報告すべきだったかどうか微妙な人がいたな。ジョンという留学生で、歳は私より2年若い男子。


 ジョンはあだ名で、中華系のマレーシア人だった。やせ型で銀縁の眼鏡を掛けていて、身長は私と同じぐらいだったけど、お金持ちの家で育ったのを感じさせるような、上品な振る舞いで、姿勢もぴんとしていた。学園祭でたまたま短編映画を観て、私を知って、ご飯を食べている時に向こうから話掛けてきた。休みの日に2人で京都のお寺を散策しないかと誘われて、最初は忙しいからと言って断ったんだけど、何度もお願いされるうちに根負けしてね。


 午後8時までには帰してと言って、土曜日に電車とバスを使って浄瑠璃寺というところに行ったの。京都と言ってもすぐ近くは奈良の、すごく便の悪い所で、当時はデートではなく、留学生を案内しているという感覚だった。今考えたらデートだったかもしれない。有名な馬酔木(あしび)の花が咲く時期ではなかったけれど、観光客は少なくて静かで、ジョンは感動していた。


 悪い人ではなかったけど、2回目に京都市内を一緒に歩いていたら、ピンク色の看板のお店があった。そこから中国人女性が出てきた時、ジョンは、まるでゴミが落ちているのを見るような目をしたの。


 仮にこの人に好きだと言われても、お付き合いはできないと思った。自分がなぜ不快になったのか説明したら、親愛なるジョンは納得したから良かったわ。ジョン以外にも男子はいたけど、つまらなさそうな人間ばかりで、卒業するまで異性と一対一で行動することはそれ以降は本当になかった。


 ユーチューバーになってからも、誰ともお付き合いすることはなかったな。出会い自体はあったのだと思う。私の心が頑なだったのかもしれない。


 ……ねえ、これから私はどうすればいいの? お母さんの病院、なんだかごたごたしている。内部告発の動画、拡散されているし、看護師の視線も厳しい。にょほりんという名前のユーチューバーが、話題の医療法人と繋がっていると、誰かが騒ぎ立ているし、今の商売を続けるのは難しくなるかもしれない。


 お母さん。目が覚めたら、この世界は嫌だと思うよ、きっと。眠ったままなのも私は嫌だけどね。お願い、起きてよ。何とか私を守ってよ》


 「麻友、麻友でしょ?」


 夕方、二宮麻友はショッピングモールの食料品売り場で声を掛けられた。振り向くと、幼い2人の男の子を連れた女がいた。砂川正美だった。5年以上前に最後に会った時と比べて老け込んだように見えた。白髪も所々目立っている。


 「正美じゃない? 久しぶり」


 買い物を終えた2人はフードコートに向い、アイスクリームを注文した。正美は2人の子どもに小銭を渡し、ゲームコーナーで遊んでいるように告げた。


 「動画楽しい?」

 「…まあまあかな。正美は、痩せた?」

 「実はね、旦那と今、離婚協議中なんだ」

 「えっ」

 「まだ姓は砂川だけど」


 ストライプのシャツとジーンズ姿の正美が髪をかき上げると、開いた胸元で十字架が揺れた。


 「原因は?」

 「向こうの借金。問い詰めたら、前橋のキャバ嬢に貢ぎこんでいたみたいで、愛想が尽きたの。子どもは私が引き取るつもり」


 麻友の脳裡に、砂川の父の葬式で見た男の空虚な目が浮かんだ。


 「そんなことより、病院は大丈夫なの? 夕刊に出てたけど」

 「夕刊? 見てない」

 「きょうは代休を取っててね、買い物に行く前に家に届いた夕刊に目を通したんだけど、麻友の病院が所得隠しの疑いで税務署から捜査を受けているって記事が出てたわよ」


 ユーチューブでの内部告発を契機に、物事が自分の力ではどうしようもない方向に、それも一段と悪い方向に進んでいる実感が麻友にはあった。


 「正美。私のこと、親のおカネでいい思いをしていた人間だと言う風に、嫌いにならないの?」

 「そんな訳ないじゃない。麻友の意思ではないでしょう?」

 「もし、わがまま娘の存在のせいだとしたら?」

 「仮に麻友がお母さんに贅沢な暮らしをねだっていたのだとしても、嫌いにはならないよ。むしろ私はあなたが生きていることに感謝をしている。高校時代にあなたと会えなかったら、あそこにいる子ども達は生まれてこなかったかもしれない。少なくとも、高校時代のみんなは、あなたの味方よ」


 遠くでママと呼ぶ声がした。ゲームコーナーから駆け付けるなり、僕もアイスが欲しい、僕はクリームソーダと口々に言う。


 「男の子ふたりを一人で育てるのは、大変そうね」

 「聖徳太子になりたい気分よ」


 麻友はずっと群馬にいたいと思い始めていた。


 「正美、無理はしないでよ。そうだ。今度、うちに遊びに来てよ。子どもを連れてね」

 「いいの?」

 「大学時代の仲間が居候しているんだけど、喝(かつ)をいれてやってよ。歳は一緒だから」

「じゃあ遠慮なくお邪魔するね。群馬も変わったよ。ドライブでもいこうよ」


 2人の子どもは正美の両側に立ち、彼女のシャツの裾を引っ張りながらママ、ママと言って、レジに連れて行こうとする。


 「まだ時間あるでしょう。麻友も何か頼もうよ。もっと話をしていたいの」


 おばさんまたアイス食べるの、と正美の下の子が言ったのを、まだおばさんじゃありませんとムキになって反論した麻友は、自分の身体が不思議と軽くなったように感じていた。

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