第29話 令月、時は和し気は清む

 母は天井を見上げた。澄夫はただ黙って、母の前に立っていた。


 「とみ子さん、息子さんよ」


 母は天井を見上げてしばらくすると、首を垂らし、欠伸をして眠りに入った。


 「これだけ会っていなかったら、仕方がないですよね」


 黄金色の稲田が、秋風に揺れていた。小川の水面が日光を反射して輝き、丘陵や寺社の森の緑が躍動していた。


 「いい所でしょう。あそこのあたりに梅林があってね。ちょっとした名所になっているんですわ」


 山崎は向井に促されてベランダに出た。向井は背伸びをした


 「空気はまあまあ綺麗やね。風はちょっぴり強いかな」


 西の方に月がうっすらと青空に透けるように傾いている。


 「もう秋ですね。3カ月とちょっとで今年も終わって、新年ですか」

 「早いですなあ」


 向井は梅林の花が一斉に色づき、その香りが漂ってくるのを想像しているようだった。


 「小学校の頃、遠足に来たのを思い出していましたよ。あのあたりに文学館があるんですよね」


 「その頃なんて、万葉集覚えさせられても、何も分からんでしょ」

 「ええ。感想文を書くのに苦労しました」

 「ここも、昔の人はよく歌にしているんです。『大和には群山(むらやま)あれどとりよろふ天の香久山登りたち』」

 「お詳しいですね。何という意味ですか」

 「色んな山があっても香久山は特に素晴らしくて、登ってみると本当にいい国だと分かる、みたいな歌ですわ。今はどうかわかりませんがね。こう見えても国文科出身なんですわ」


 向井は1人でカラカラと笑い出した。2人は再び陽の当たる多目的室に入り、木製の丸椅子に腰を掛けた。壁に取り付けられたコルクボードには、大柄な男の姿を捉えた静止画像を印刷した紙が何枚か飾られている。向井は、サミフという名前の職員をとみ子さんが非常に気に入っていたのだけれども、少し前に交通事故で他界した事実を伝えた。


 「外国の方だったんですか?」

 「日本とフィリピンのハーフでね。テレビの取材も来たんですよ。力士やったから、とみ子さんを軽々と持ち上げて、そのたびにお母さん喜んではりましたよ。サミフのお母さんはエンジニアみたいでね、表計算ソフトを普通に使いこなせるような方やったのに、こっちに来たら水商売をさせられて、大変やったと聞かされましたよ」


 車椅子の上で眠るとみ子の肉は削げ落ち、唇は乾燥している。


 「この母にしてみれば、実の息子はこの世からいないようなものなんでしょうかね」


 向井は山崎の目を見た。


 「ここにおるやないですか。まだ間に合いますよ」


 とみ子の口元からよだれが滴り落ちた。


 向井はファイルから書類を取り出した。とみ子の身元保証人となるうえで必要となる届出書だ。


 「お願いしてもいいですかね?」


 山崎は向井から届出書とペンを手渡された。氏名の他、自宅住所と携帯電話の番号、勤務先の記入欄がある。


 「東京からだとまあ、来るのが大変でしょうからね。仕事だって忙しいでしょう。ただこちらとしては毎日でもとみ子さんに会ってほしいとは思ってますけどね。とみ子さんと連絡を全く取らなかったのは、それなりのご事情があったんやろうなとは推測していますけど、健全やないでしょう」


 自分の仕事がユーチューバーだと言ったら、向井はどんな反応をするのだろうかと、届出書に署名をしながら山崎は思案した。それもこの施設を運営する医療法人の、理事長の娘とショートメッセージでいつでも連絡できる人間だ。こちらからそれを切り出せば、話が変な方向に発展しかねず、面倒でもある。自分の生業についても黙っておきたかったが、勤務先の記入欄までペンを進めると、触れない訳にはいかなくなった。


 「自営業の場合、どうすればいいですか?」

 「そしたらね、商号と登記した住所などを書いてください」

 「商号はなく、登記もしていないんですが」

 「あの、失礼ですが、どんなお仕事なんですか?」


 向井は相手が反社会的な勢力に所属していない人物であることを祈ったが、ユーチューバーだと知ると安堵した。そして疑問が浮かんだ。


 「ユーチューバーなら、奈良でもやれますやん。やろうと思えば」


 ──山崎は大浴場の湯舟につかりながら、夕日が若草山を照らすのを眺めていた。人はまばらで、サングラスを身に着けた男の入浴姿を訝しがる者はいなかった。奈良駅前のホテル内のランドリーには、男の衣類が投げ込まれた洗濯乾燥機が唸り声を上げている。


 明日から平日だ。二宮麻友からのショートメッセージを目にするまでは、京都経由で新幹線を使って東京に戻らなければならないと考えていた。共同企画向けに見繕ったのは、出張費がかからない関東の企業ばかりである。アポイントの電話を掛けた時、詳細について説明を求められたら、東京にいればすぐに担当者に会いに行ける。だが、今すぐ東京に戻る必要はなくなった。


 奈良にとどまろうと考えた理由はそればかりではない。宿泊する部屋の机に置かれたクリアファイルには、身元保証人届出書の控えと、施設が採用活動用に作成した資料が入っていた。


 「山崎さん40でしょう。これから先のこと心配で仕方ないんと違います?」


 向井の一言一言を山崎は思い出していた。


 「それなら、とみ子さんのそばにいてあげてください。奈良で働く場所がないならうちが用意します。それと何ならお母様の介護の様子をユーチューブに上げてもらっても個人的にはありや思てます。施設の名を出す出さないは別にしてね、いいところも悪いところも、介護施設のありのままの姿を曝け出してもらえたら、関心を持ってくれる人増える気しますし。本当は愛に溢れんといかん場所ですからね、ここは。企業の都合のいい話ばかりを取り上げる動画よりは、よっぽど価値があるんやないかと思うんですけどね」


 向井は山崎に施設内を案内した。認知症を患った入所者が口を半開きにし、車椅子に座りながら大和国の四季の移ろいを目にしている。雑菌の舞う施設外から隔絶され衛生面の管理が行き届く、言葉が奪われた世界は、生体を焼却場に運ぶ前に一時的に保管するための空間にも見える。


 「実際働き始めたら色々と大変やと思いますけど、今のままでも大変やと思いますよ。もし考えがまとまったらいつでもいいですから電話ください」


 入口まで見送りに出た向井は山崎にこう告げた。


 若草山は朱を深めている。東の空は、濃度の高い塩化銅水溶液に墨汁を1滴ずつ垂らしたかのように影を濃くし、山の端とのコントラストを強めていった。


 ユーチューバーは辞めようと思えば、いつでも辞められる。実際にそのような人間は山のように多く存在する。期待していたほどの経済的な恩恵を享受できず、労苦の割に合わないと考えて身を引く者は後を絶たない。山崎も結局は、そういう人間の1人なのかもしれなかった。


 にもかかわらず、草木は色づき、空は変化し、鹿は街中を闊歩している。亡骸は朽ち、涙は乾き、子どもは腹を空かせ、果実は刈り取られ、醤油は発酵し、地球は自転する。俯瞰してみた自分も、結局は流転する自然の一部分に過ぎないのだ。進むべき道に思い悩んだところで、自分の意思で将来を選択したのだと自らに言い聞かせたところで、直面する現在は自然の流れとは無縁ではない。


 施設長の提案は、時間を掛けて検討する価値があるのではないか。山崎はそう考えるようになっていた。


 肩の力は、無意識のうちに緩んでいた。

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