第28話 醤油樽

 埃を被った固定電話の着信音で目が覚めた。一番最後に使ったのは、まだ山崎が会社員だったはずだ。カーテンの隙間から柔らかい光が漏れてくる連休中日(なかび)の早朝だった。表示された番号の、最初の4桁は見覚えがある奈良の番号だ。


 男性は向井と名乗った。山崎とみ子が入居する特別養護老人施設「万葉の杜 香久山」の施設長を任されている者で、身元保証人の件で相談があり、懇意にしていた司法書士から連絡先を聞いたのだと言った。


 用件を伝えられて電話を切った後、山崎はスマートフォンで施設名を検索した。母が入居する施設は、二宮メディカル・ホスピタリティが運営している。その偶然に驚いた。


 キャリーケースに3日分の衣類とを畳み入れ、ノートPCとカメラを詰め込んだ。ストライプのワイシャツとグレーのジーンズ、鹿色の革靴を身に着けて、駅で奈良までの乗車券を購入する。これから先の収入のことを考えると新幹線を使う気になれなかったし、迷惑を掛けた高速バスを利用するのは気が引けた。東海道線の車内は席に余裕があった。山側に並ぶロングシートに腰を掛け、流れる車窓の風景に目をやると、雲の立ち込める隙間から秋空のかけらが散らばっていた。


 多摩川の河口を渡るころ、麻友との共同企画を思い出した。連休が終われば日常が始まる。


 田子の浦だと気づいたあたりは、工場地帯で、煙突から白煙が立ち上っている。富士の高嶺は雲に隠れて見えない。草薙の駅で雨が降りだし、行き場をなくした水鳥が物思いに沈み、線路脇のフェンスに留まっている。名古屋に近づくにつれ、潮っぽさが混じった空気が車内に流れこみ、在来線と並走する新幹線が鶴のような警笛音を響かせた。本数の少ない関西線は利用せず、大垣経由で京都に向かい、そこから南下する。山崎の腰に疲労が蓄積しだした。


 奈良線で宇治川を渡る時、山崎は急に不安になった。奈良に近づくにつれ、覚えのある空気が漂い始める。懐かしさより、異国の地で迷子になった気分がする。奈良駅に着いた時には日は沈み、ひんやりとした外気が季節の変化を告げた。


 母とは翌日の午前に面会する予定だった。

 ホテルにチェックインすると、荷物を部屋に残し、周辺を散歩することにした。三条通りを若草山に向かって一直線に進むと、商店の扉のあちらこちらに、鹿の角きりが春日大社で近く行われるのを告知するポスターが貼られていた。


 やがて鹿の群れと遭遇した。角が枝分かれした牡鹿の下に雌鹿が集い、人通りを見遣っていた。角きり場に追い込まれた牡鹿は逃げ惑ううちに人間に取りさえられ、麻酔を打たれ眠りに落ち、おのれの力の象徴とする角を切り落とされる。眠りから覚めると、雌鹿を獲得する競争の武器を失った自分に呆然とする。


 しかし時間が過ぎると再び角は生えはじめ、やがて発情期を迎える。その繰り返しから、逃れることはできない。牡鹿にとっては、生殖こそ与えられた仕事なのだ。

 平成の世の古都の変化は、蓄積した時間の厚みを山崎に感じさせるのには十分だった。若者向けの雑貨店が目立つようになり、相続税対策で購入されるような分譲マンションも増えた。


 山崎は、ならまちにある古民家を改装したレストランで夕食をとることにした。地場産の新鮮な素材を駆使した創作料理を安価で提供する店だった。


 2000円のコースには大和牛のたたきがついている。吉野杉の樽で熟成させた醤油に、山葵を溶かして食べてほしいとスタッフは言う。吉野の酒蔵が醸す酸味の効いた純米吟醸とよく合った。


 「どちらからいらっしゃったんですか?」


 店長と思しき女性がカウンター越しに尋ねてきた。関東のイントネーションだった。


 「東京からなんですけど、実家がこちらで」

 「そうなんですか。私も東京で、レストランで仕事していたんですけど、10年前にこちらに越してきて店を開いたんです」

 「ずいぶんこのあたりも変わりましたね」

 「奈良の方はみなさん、そうおっしゃいますね」

 「変化しようという気概がそれほど強くない街でしたからね」


 店長はふふふ、と笑った。


 「でも、日本人には過小評価をされている街ですよ。お料理はお口に合いますか?」

 「美味しいです。お醤油の、この味は久しぶりです」

 「それは良かった。でも残念ですが、こちらのお醤油のメーカーさん、今月で廃業されるんです」

 「後継者がいなかったんですか?」

 「フランスから来た職人の見習いの方がいらっしゃって、その方が後を継ぐのかなと思っていたんですけど」


 山崎は首を傾げた。


 「吉野杉の樽のタガを作る職人がいなくなってから、昔の醤油樽を使い続けることができなくなったみたいなんです。商品の出荷量が減る一方で、資材価格は高くなってきて、たまらず値上げをしたら、美味しい味だと知っていても消費者は大量生産型の醤油に心移りしてしまって。フランス人の見習いへの給料は払えなくなってしまったようなんです。その見習いの方も、しばらくはお金を借りて生活していたらしいんですが、伝統の味が守れない現実に絶望して、結局、母国に帰ってしまわれたんです」


 醤油の醸造に用いる木樽には竹を編んだタガが用いられるらしい。山崎の記憶にワイン樽の再生工場が蘇った。あの時に見たワイン樽のタガは鋼鉄製だった。片方はオークで、もう片方は国産杉。醤油樽のタガを鋼鉄製でにすれば良かっただけだが、それを拒まなければならない職人の世界があったのだろう。


 「醤油蔵は廃業したらどうなるんですか?」

 「マンションになるみたいです。そういう事例は全国の至るところにあるみたいですよ」

 「なんだか今のこの国を象徴していますね」

 「そうですよね。『自分達はいい思いをしていない』と言う人や組織が多すぎて、後先のことを考えずに目先の利益ばかりに目がくらみ、価値のあるものを失う訳です」


 店長の箴言に耳を傾けながら、山崎は冷酒に口を付けた。内部が空虚で、雑菌だらけで、樽のように腹が出た自分こそが、目先の利益に目がくらんでいる人間なのかもしれないと思った。


 翌朝、山崎はホテルを出ると、近鉄電車に乗って南に下った。大和八木駅でタクシーを使い、山崎の母が入居する特別老人養護施設に向かった。雲は抜け、高い空の下で道端に秋桜が揺れていた。幹線道路から雑木林に入り、坂を上った丘の上に横長の建物が目に入ってくる。3階のベランダに干した真っ白のシーツが風になびいていた。


 受付で名を告げると、施設長の向井がファイルを脇に抱え、事務室のドアから現れた。頭はぼさぼさで、いかにも寝起きの風貌だった。かすかにアルコール臭がする向井と一緒にエレベーターに乗って、3階にある多目的室に向かうと、小さくなった山崎の母の後ろ姿があった。


 「とみ子さん、息子さん来はったよ」


 とみ子は振り返ろうせず、窓に映る明日香村の風景を眺めている。向井はとみ子の耳に口を近づけ、もう一度、息子さん来はったよ、と言い、車椅子の向きを転換し、山崎澄夫の姿が見えるようにした。


 とみ子はつなぎ型のパジャマを身に着けている。皺だらけの顔を息子の方に向け、目を細めた。


 「……さみ、帰ってきたんか」 

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