第27話 Say you love me...

 二宮麻友がマンションに着いたのは、午後10時過ぎだった。薄暗い部屋のなかで部屋ぎの川本はかぼちゃ色をしたメロン味のアイスクリームを口にしながら、民放の報道番組を視聴していた。


 「遅かったね」

 「終わった後マネージャーに呼び出されて、話し合いをしていたの。アイスクリーム美味しそう、私のはないの?」

 「本当に?」

 「嘘をついてどうするの。世間はもうハロウィン一色だよね。早すぎない?」 


 山崎とマネージャーの2人と打ち合わせし、その間に移動時間があることを考えてみても、麻友の帰宅時刻は遅い。


 「二宮の髪って、そんな結び方してたっけ」

 「いつもこうだよ、どうしたの?」

 「もういい」


 川本はアイスクリームのカップとスプーンをこたつ机の上に乱雑に放り投げると、扉を開けて脱衣場に向かった。


 「ちょっと、ねえ。私なにか変なこと言った?」


 川本は無言のまま着替えを始め、キャリーケースからメイク道具を取り出した。報道番組のキャスターは速報が入ってきたというが、耳に入らない。


 「もう遅いよ。何? 山崎さんと私が変な関係になったとか、そういう風に思っているわけ? ないから」

 「白々しい。やったならやったってはっきり言えば。だいたい何? あんたのマネージャー暇なの? 急ぎの仕事でもあるまいに時間を取るなんて」

 

 川本の眼は麻友の演技を見抜こうとしていた。


 「向こうが忙しかったから、待たされたの。なんで信じてくれないの?」


 麻友は大きな声を上げたのを悔やんだ。彼女のスマートフォンがこたつ机の上で振動したのはその時だった。見覚えのない電話番号が表示されていたが、群馬県内の固定電話からの着信だとすぐに分かった。


 ──数分後、二宮麻友は服を着替えていた。クローゼットの奥にあるキャリーケースを引っ張り出して、数日間困らないぐらいの衣類と化粧道具を詰め込んだ。ハンガーラックに吊るされた喪服を畳んで持っていくべきか、躊躇したが、覚悟して持参することにした。


 川本千夏はすでに外出する準備を整え、ベッドに腰を下ろしてテレビが報じるニュースに目をやっている。アスパの中学時代の写真を見たのは初めてだ。川本のスマートフォンにも何度か着信があり、同じ人物からショートメッセージが送られてきた。週刊誌の記者を名乗っている。テレビ局に勤務していた時代の仲間が、こっそりと自分の私用の番号を教えたに違いなかった。取材に応じる義務はないし、落ち着いて話をする状況でもない。


 鴫の嘴(くちばし)が卵殻を突き破るように、マナーモードにしていた2人の携帯電話が相次いで振動した。麻友には、母の直子が取引先との食事中に倒れ、救急車で運ばれたとの連絡があった。意識を失い、そのまま集中治療室に入ったという。電話を切ると麻友は淡々と母が倒れたという事実を川本に伝えた。


 前橋のキャバクラのマネージャーに川本は、体調が悪いのでしばらく休むと伝えていた。アスパの動画で醜態を晒された女性が働いていると気づいた人間も、店のなかにはいるかもしれない。だが昼の世界と夜の世界とでは行動様式が異なる。醜態を晒されても、何食わぬ顔して生きていけばよい。


 ついさっきまで、麻友の部屋を出た後は、復帰の連絡を店に入れようと考えていたのだが、時間とともにそうした想いは薄れていった。麻友が遅く帰宅したのは、本当にマネージャーと打ち合わせを行っていたからだったかもしれなかった。自分の勝手な思い込みである可能性は否定できないし、疑いを持つこと自体、何ら得がないように思えてきた。 


 麻友の、いつかはそういう連絡が来るのだという予想をしていたような落ち着いた話し方は、感情的になっていた川本への鎮静剤になった。半面、麻友の態度は心的な衝撃から精神を守るための防御本能によるもののような気もしている彼女も脆く崩れ落ちかねない。今取りうるべき行動で最も適切なのは、1人にさせないことではないかと川本は考えた。


 「ついていく」


 麻友は理由はよく分からなかったけれども、漠然と正解に思えた。諍(いさか)いがあっても忘却するのが、今は最善なのだという点で、2人の考えは一致していた。


 夜の関越道は交通量が少なかった。漆黒の闇を突き破るように、車は麻友と川本と、2人分のキャリーケースを運んでいた。ハンドルを握る麻友は、何も語ることなく、前方を凝視してアクセルを踏んでいる。川本は口を閉ざし、FMラジオから流れるパティ・オースティンの「セイ・ユー・ラブ・ミー」に耳を傾けていた。


 面会時間はとうに過ぎていたが、理事長の娘が会いに来たと言えば、現場は特別な対応をせざるを得なかった。母の顔は雪のように白く、それでも頬のあたりはほのかに血液の赤色が透けているようにも感じられ、口元は心なしか笑っているように見えた。娘の問いかけに応じることはなく、深い眠りに落ちている。


 二宮メディカル・ホスピタリティに所属する当直の医師は麻友を診断室に招き入れ、母の容態について説明した。理事長が得意先との会合中に柑橘系のデザートを食し、その後、血圧の急低下を起こして、以来、意識が戻らない状況であると告げた。直子は、高血圧症の治療薬の効果を一段と強めかねない柑橘類を提供しないよう、レストランでは常々ウェイターに伝えていた。にもかかわらず、レストラン側のミスで、本来は得意先側に出すべきだった皿を彼女の前に置いてしまった。酸味が抑えられたデザートだったため、本人は気づかずに飲み込んでしまったようで、救命措置を講じたもののショックの度合いは重く、脳に何らかの障害が残る可能性があると言った。


 改めて母の表情をみると、眠りながら、大丈夫だから、と言っているようだった。そこに涙はなく、強い女性の姿があった。麻友は、母のことが好きになった。


 待合室には川本と、秘書室長の能田の姿があった。川本は能田に麻友の大学時代の友人であることを明かし、今は彼女の部屋に転がり込んでいる身だと説明しているところだった。


 能田は秘かに麻友の制作する動画をチャンネル登録している。診察室から出てきた女性をみてすぐに麻友だと気づき、声を掛けた。彼女が病院に到着した時は、病院の外に出て、幹部らに電話をして今後の対応について協議していたのである。翌朝に臨時の理事会を開き、理事長代行を選ぶ段取りをつけたと言ってから、麻友と2人にさせてもらえないかと川本に言った。


 「麻友ちゃん、こんな時に申し訳ないけど、病院の経営には全く関心がないという理解でいいんだよね?」


 麻友は能田の質問の意味がよく分からなかった。


 「どうなんでしょう」


 あいまいな返答に能田は語気を強めた。


 「それじゃ困るんだよ。ここで約束してもらわないと。お母さんはよく言っていたよ。娘は経営者には向いていないって。お母さんとの生活に困らないぐらいのおカネを用意してあげるから、病院の経営については、こちらに任せてほしいんだ」

 「あの、なんで今、決める必要があるんですか?」


 能田はひと呼吸を置き、どこまで話すべきなのかを頭のなかで整理した。


 「明日の理事会でね副理事長の勝見さんに、理事長代行になってもらう予定なんだ。勝見さんといっても分からないか。お世話になっている銀行から来てもらった方なんだけどね。最初は代行という形だけど、近くお母さんには正式に退任してもらって、勝見さんが新しい理事長に就く流れが固まったんだよ。それとね、まだ内緒にしてもらいたいんだけど、勝見さんはこの病院をどこかに売却しようと考えている。一人娘が跡継ぎの顔をしてしゃしゃり出れば、まとまる話もまとまらなくなってしまうよね。それを勝見さんは気にかけているんだ」


 麻友を後継者にする意思が直子にあれば、大学卒業後の奔放な暮らしぶりは許されなかったはずだ。経営への関心を問われたところで、すでに分かり切った話でもある。そうはいっても。能田の物の言い方は一方的で、麻友は気を悪くした。


 「口頭で色々言われても困ります。母の介護でどの程度のおカネが必要になるか見当がつかないのに、空手形に終わるリスクさえある約束をここで結べというのは、強要に近いものがありませんか?」


 能田は閉口した。議論をしたところで、麻友が経営者にならないのは自然の摂理のようなものである。


 「確かに麻友ちゃんの気持ちもあるよね。やっぱり今じゃなくていいよ」


 能田はこう詫びると、きょうはもう遅いからゆっくり休んで、と言って麻友の元を離れていった。


 川本は自動販売機コーナーで缶コーヒーをすすっていた。2人は病院を出て車に乗り込むと、10キロほど離れたところにある麻友の実家に向かった。


 母の姿は、麻友に安らぎをもたらし、感情の振幅は時間とともに小さくなっていった。麻友と川本は、いつもの2人のように、他愛もない雑談を始めた。県道を進んでいると、川本はぼそりと言う。


 「このあたりに有名なパスタ料理屋があるよね、確か」

 「なんで知っているの」

 「内緒」


 中心街を流れる小川は白く流れていた。きっと男とこの街にドライブに来たことがあるのだと麻友は思った。

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