第26話 負債の累積的増加とパワーバランス

 何事にもしなやかな弓子は山崎の帰国に胸をなでおろし、大学の図書館で再会するとハグをしてほしいと頼んできた。帰国のために高金利で借金をしたと話すと、その日の塾のアルバイトが終わった後、山崎を駐車場に呼び出して、15万円が入った封筒を手渡し、もう一度ハグを求めてくる。弓子は返すのは気が向いた時、いつでもいいからと耳元でささやいた。なぜ自分のような人間にそこまで好意を示すのか、山崎は不思議でならなかった。彼女以外の女性からブロージョブを受けたことを恥じた。


 借金返済のために、山崎は普段のアルバイトに、深夜のコンビニエンスストアを加えることにした。父母にせがめば心配をされる。自分で蒔いた種だから自分で刈り取らなければならないと言い聞かせ、黙々と働いた。弓子は教員採用試験に合格し、翌年の4月から都立の中学校教諭として働くことが決まった。社会人になることを機に一人暮らしも始めるという。山崎も4年生になれば、教育実習や採用試験の準備に忙しくなる。就職活動も始まる。稼げるうちに稼がなければならないという焦りを感じながら、4月からは弓子の部屋に転がりこんで、家賃が浮いた分を返済に回そうとも考えていた。


 教員養成大学の人間が、民間企業の採用活動に応募し、なんとか面接まで漕ぎつけた時に、かなりの高確率で質問されるのが、なぜ教師を目指さないのだ、というものだ。社会的な信用や収入の安定性などを考慮すれば、民間企業の世界しか知らない人間にとっては、公的教育の世界は魅力的に映るのだろう。内定を出したとしても、相手が学校現場に未練を感じる人間ならば、辞退されるリスクがある。とはいえ学校現場には向かず、企業からは魅力的に映る学生も一定数は存在する。


 エントリーシートを提出した企業から面接に呼ばれるケースは数えるほどしかなかった。奇しくもその1社が、社会人になって勤務することになる業界紙の運営会社だった。経営状況は芳しくはなかった。それでも、技術や科学に明るく、少々無理な扱いをしても音を上げそうにない就活生を手放すわけにはいかないというアニマルスピリッツが社にはあった。


 「教員なんかより楽しいよ。上場企業の社長とか政治家とか事務次官とか、普通なら会えない人と会えるようになるから」


 面接を繰り返すたびに、社員や役員から同じことを何度も聞かされ、すんなりと内々定の通知が来た。


 6月の丸1カ月、山崎は中学校で教育実習をすることになっていた。一定の成績以上でなければ卒業できない必修科目である。会社側はそうした事情は知る由もなく、教職への道を絶たせようとの算段で、山崎を会社に呼び、6月末まで期間限定で利用できる沖縄の高級リゾート宿泊券を封筒に入れて、交通費だといって手渡してきた。必修科目でなければ山崎は利用していたに違いない。


 弓子の中学校での仕事は激務を極めていた。朝5時半に家を出て、夜11時に帰宅する毎日だった。土日は顧問となったバレー部の練習や試合が入ることが多く、まさに公僕として身を捧げていた。それでも恋人に合鍵を渡し、可能な限り2人の時間をとろうとする努力を怠らなかった。附属中学校での山崎の教育実習が始まる前の週末の夜は焼肉を振舞い、子どもは本当に可愛いから、それだけで疲れは吹っ飛ぶよ、と言って男の背中を後押しした。


 数々のアルバイトを難なくこなしてきた彼にとって、学校現場での肉体的な負荷は大したものではないように思えたし、精神的な圧力にも耐えられるレベルだと、実習の最初の頃は感じていた。この程度なら教員になれるだろうとタカをくくった自分もいた。だが時間が経つにつれ、食事が摂れなくなっていく。自分が話す一言一言が、まるで別の人間が発しているように感じ、眠れなくなった。1カ月の実習期間が終わると、山崎の体重は以前よりも15キロ減少し、60キロを割り込んだ。弓子はステーキをご馳走したが、山崎の胃は消化できず、駅のホームに吐瀉物が残った。


 子どもは確かに可愛らしかった。それなりに教育投資を掛けて育てられた生徒が集まっていたせいか、塾で出会う生徒らよりも、純朴な瞳と多く出会った。ただ子どもの視線に晒される時間は、塾とは比べものにならないぐらい長く、疲労は吹っ飛ぶどころか蓄積し続けたのだ。実習校の教師らは、振る舞いや所作に淀みがなく、人間の模範たらんと言動に気を配っていた。その職業像に自己を無理矢理合わせなければならないのだという強迫観念が山崎を襲った。実習後に休養をとっても、採用試験に臨むための意欲は高まらず、結果として1次試験で不合格となった。


 「来年合格すればいいから」


 業界紙で働いて生活費を稼ぎながら、来年夏の採用試験を受け直せばいいのだと弓子は励まし、山崎は4月の入社式に臨むことにした。同期は彼を入れて5人だった。2週間程度の研修を経て、名刺の入った紙箱を手渡され、オン・ザ・ジョブ・トレーニングが始まった頃には、3人に減った。このうち1人は群馬支局に、もう1人は大阪支社に配属され、山崎は本社勤務となった。


 1年目の、箸の持ち方さえも分からない若手であっても、組織は容赦しない。担当した企業の広報担当者に対する挨拶回りこそ、先輩記者が同伴したものの、その先にどう動くかは自分で考えなければならない。周囲は「ググれ」としか言わず、取材先からは馬鹿にされ、会社にクレームが入れば上司から叱責され、仕事が終わると毎日のように飲みの席に連れ回される日々が続き、2度目の採用試験の準備をするための体力と気力が奪われていった。かと言って、食欲は衰えることはなく、体重は年に5キロのペースで増加していった。


 終業後は冷えたグラスワインが199円で注文できるイタリアンレストランで語り合うのが通例だった。24時間営業のため際限がなく、奇妙なことに喧嘩を何度も起こしても出入り禁止にはならなかった。現状に多大な不満を抱える上司や先輩が納得のいくまで話終えて帰宅するまで、若手は着席しなければならず、終電に間に合うように解散するという配慮はない。摂取カロリーは嫌でも増えた。深夜タクシーの領収書を提出しても受理されることはなく、みんなそうやって若手時代を過ごしてきたから、会社というのは不条理なところだから、と口々に諭されるような職場だった。外食費とタクシー代で給料の半分以上が奪われ、生活に事欠くようになると、弓子の財布が頼りとなる。


 「仕方がないなあ。いいよ」


 弓子の貸借対照表に貸付金が膨らみ、山崎の方には借入金が積みあがっていく。利息こそなかったが、負債の累積的な増加はパワーバランスを変化させた。借入金はいつの間にか出資金のような性質を帯び、支配と被支配の関係を構築した。カネは確かに借りた。でも支配される筋合いはない。そう山崎は言いたくても口にはできない。


 「いっそのこと会社起こしてビジネス始めようかな。その方が儲かりそうだし」

 「でも貯蓄していないでしょ。元手もないでしょ」


 午前2時頃に更新される競合紙の電子版にアクセスし、最新記事を確認する。自分が担当する企業に関するニュースで重要度が高いものがあれば、始発電車で企業幹部の自宅前に向かって待機し、報道された内容の確認を行うことになっている。社長交代や敵対的な株式公開買い付け、不採算事業の売却、新工場の建設、リストラなど、企業が何らかのアクションを起こす観測が広がれば、幹部が自宅に帰宅する時間を見計らって夜討ちをする。空振りに終われば本社に戻り、酒席に顔を出す。競合紙に「抜かれた」時には、深夜であっても電話が鳴ってくる。


 1年目は定型的な記事を書くことが多かったが、2年目以降は報道合戦の現場に投入されることなり、弓子と顔を合わす時間は一段と減った。山崎は疲労困憊し、性欲は奪われ、いつしか弓子を女性として接することがなくなり、空気と同一視するようになった。


 教員採用試験の日時すら確認せず、応募書類の提出期限が過ぎてしまったことに気付いた時、自分の不甲斐なさ許してほしいと思って、朝早くにスーツ姿で玄関から出ようとする弓子を、本当に久しぶりに、背後から抱きしめようと思った。


 「気持ち悪い。やめて」


 生理的に受け付けられないような表情をみせる弓子は、自分との関係を切りたくても切り出せないのだと山崎は受け止めた。50万円近くに上る借入金の返済は滞っていた。


 その日の午前には足は消費者金融の自動契約機に向かっていた。会社には病院に寄ると言った。必要な手続きを済ませて資金を調達すると、彼女の部屋に置き、衣服などの荷物をまとめてから、合鍵を郵便受けに入れて、ほとんど出入りすることがなかった会社の借り上げアパートに移動して風呂に入った。借入金は見事に有利子負債に変わった。それぐらいしないと自分は変わらないのかもしれないと考えた。


 2日後、本社で居眠りをする山崎のもとに、受付から荷物を預かったという内線電話が掛かってくる。


 「『お店に忘れ物をされたようですが、こちらにいる社員の方でしょうか』と向こうは言っていましたけどねえ。念のため身分証明書は確認して、変な人じゃなさそうだから預かったけどさ。女の恨みとかかっていない?」


 昼休みに1階の警備室に降りると、煙草の臭いのきつい警備員が山崎に訝しげに紙袋を手渡した。定年後の再雇用で働いている元印刷部の名物親父だ。中には弓子の部屋のクローゼットに入れたまま持って帰るのを忘れていたジャケットと、手紙と、帯封のついた1万円札の束が入っていた。


 夜回りの指令が出て社外に出ると、地下鉄の駅のトイレに駆け込み、まず紙袋の中の札束が50万円あることを確かめた。それから、封書の中にある便せんを手に取った。


 《ディアすみしゃん。色々とありがとう。忘れ物あったけど顔を見ると辛いから会社に持っていくことにしました。おカネは、私は授業料だったと考えています。半年ぐらい前から、別れた方がいいのかなと考えていました。何といえばいいか分からないのですが、とにかくごめんなさい。どうか幸せになってください。それでは。弓子 追伸:付き合おうとした時だけじゃなく、付き合っている時にもっと、好きだよと言ってほしかった。好きだよと言い続けてくれたら、寂しい想いをしなかったかもしれない。こんなことを言っても手遅れだけど》


 紙袋を駅のコインロッカーにしまい、電車で1時間半かけて湘南方面に向かったが、取材対象の人物の奥方から、夫は出張先からきょうは帰宅しないのだと、インターホン越しで伝えられ、空振りに終わった。本社に戻ると、先輩記者から酒席に来るように促された。気が付くと日常に飲み込まれていった。


 6カ月後、弓子は出会い系サイトで知り合った男性との胎児を宿した。


 どちらにせよ山崎は、責任をもって他人の生涯の支えになる能力がないように思えた。大学生になってから痛みから逃げ続けた過去が物語っている。今の仕事を続ける限り、自分には精神面での余裕を持つことは難しく、女性と幸せになる将来は描きにくいのだ。女性の胸の谷間を枕にしたければ、風俗に行けばいいのだと考えるようになった。


 当時と、今の山崎が置かれている状況は、何ら変わりがない。仕事が変わっても精神的な余裕はなく、むしろ経済面での不安は一層強くなる。


 自分の前で川本に裸になってほしいかと問われると、服を着たままの妹でいてほしい。二宮も同じで互いのいい所や悪い所を率直に指摘しあえる関係のままでいたい。遺伝子を残す動物としての本能が自分に備わっているのが確かであっても、男としての醜い自分をさらけ出したくないし、さらけ出した瞬間に構築した関係が崩れてしまうのを、望んでいない。


 快速電車が過ぎる音が幾たびも風に乗ってやってくる。逆川は今頃どうしているのか。弓子は何をしているのか。山崎が立ち続けてこられたのは、ある面では運がよかったのかもしれない。自父も母も、逆川も弓子も何らかの欠陥を抱えた人間であるのには間違いない。川本や二宮だって、自分だってそうだろう。ほとんど馬鹿しかいない世の中で、みんなが生きているのはなんとダイナミックなことなのか。ソファの上でそんなことを思いながら山崎は深い眠りについた。

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