第25話 変態的な馬鹿

 4年間の学生生活は、ひとえに孤独なものだった。2歳年下の同級生らとは、親密な関係を構築しようとする動機が高まらなかった。山崎は学業をおろそかにしない程度で、塾講師や缶ジュースの配送員、スナックの黒服など複数のアルバイトを掛け持ちしてそれらに明け暮れ、休日は昔のように図書館にこもった。


 生き物を相手にするような専攻を選んでいれば、嫌でも実験室に通う毎日が続いたことだろう。山崎はなぜかバイオの世界には興味が持てず、建築関係のゼミを選んだ。歴史的建造物の見学ツアーの参加や、測量の実習などに時間を奪われることはあっても、理系の学生のなかでは比較的、自分の時間を確保しやすかったのである。


 卒業後は理科の教員になれたらいいとの望みは持っていた。ただ就職難のなかで採用のハードルは高く、民間企業へ就職する心積もりも必要な時勢にあって、就職活動の準備にも迫られた。2年遅れで社会人になろうとする自分を受け入れる企業があるのか、当時の山崎は不安に思った。


 学生時代に何に打ち込んだのかと聞かれた時、自分にはアルバイトしかない。ユニークな経験をしなければ、採用担当者の目に止まることはないだろう――。強迫観念に後押しされる形で、大学3年生の夏、アルバイトで貯めた50万円を使い、ユーラシア大陸を横断をしようと思い立ったのだった。


 その頃、山崎は同じ学習塾で講師をしていた女性と付き合っていた。伊藤弓子は家庭科専修の4年生だが歳は一つ下だ。黒髪のショートボブでシャム猫のようなつぶらな目をし、背はやや低く、胸は比較的豊かな方だった。実家暮らしの彼女は教員志望で、1次試験が終わったばかりだった。2人が一緒にいられる時間は休日の大学の図書館か、アルバイトが終わった後の短いドライブぐらいだったが、男が旅に出たいと言った時、弓子は不安になり、定期的にメールを送ることと、買春しないことを求めた。


 大阪からフェリーで上海に行き、その後は東南アジアを回ってから再び中国に戻り、内陸地から中央アジア諸国、イラン、カフカス諸国、ウクライナ経由で欧州諸国に向かい、終点はロンドンとする旅程を立てた。上海から鉄道とバスを乗り継ぎ、ミャンマー、タイと陸路で入ったまでは良かった。バンコクの安宿街で山崎は、まるで旅行読本に記されているのを忠実に再現するかのように、沈没してしまう。


 物価は安く食べ物は美味い。不便を感じるどころか、若い山崎にとっては居心地が良すぎた。大学の授業が再開しても、山崎はバンコクにいた。


 カオサンの喧騒が遠くから響くゲストハウスで逆川という男に出会った。髪は豊富で肌に艶があり、一見すると同年代にみえたが、すでに50歳で、やっぱりイージーライフだよな、イージーライフ、というのが口癖だった。逆川と飲み歩くうちに、農村地帯に行って、タイバイクを乗り回そうという話になり、東部のチャンタブリーにバスで向かった。宝石商が集まる街だ。


 渋滞がひどく、都市間バスが街に到着した頃には宝石を取り扱う露天商は店終いをしていた。宝石を安く仕入れてカオサンに来る日本の小金持ちに高く売りつけようと目論んでいた逆川はがっかりしていた。ホテルに向かいそれぞれ荷物を部屋に置き、ロビーのコーヒーショップで再会すると、逆川は、やることがないから女でも買おうか、と言い出した。胸が痛んだが、流れに身を任せようと逆川の背中を追うと、繁華街の路地に入ったあたりに、マッサージ店があった。


 エアコンが効いた室内には、壁の近くのアルミラックの上にブラウン管テレビが無造作に置かれ、タイ語の恋愛ドラマを流している。その脇の椅子に座る巨漢の男がにらみを利かす先に雛壇があり、厚い化粧をした女性がドラマを見たり、雑誌を読んだり、思い思いの時間を過ごしている。


 「おお、ここにもイージーライフ。俺、あの右上のコにするよ」


 得体の知れない客の前で裸になり、得た報酬の一部を胴元に支払う生活のどこがイージーライフなのか山崎には分からなかった。当時付き合っていた女性との約束もある。やはりホテルに戻ろうとすると、テレビの脇にいた男が出口の前に立ちはだかり、入場料として2000バーツを支払えと英語で言う。入場料込みで女を指名しサービスを受けたら、いくらになるのかと尋ねると、6000バーツだった。


 何もせずに2000バーツを取られるのは癪に障る話だと思い、社会見学を続けようと考え、最前列の端で腕組みをしたまま不機嫌そうに眼を閉じていた、やせ型で黒髪が胸のあたりまで伸びた色白の女性を指名した。男にジャパニーズラングイッジ、ノー、OK? と問われると、チャイと言って肯いた。


 女は挨拶をすませると、シャワールームに山崎を連れていき、全裸にした。身体を石鹸で流した後は幕で仕切られた空間のなかに案内された。女はうつぶせの山崎に手をかけ、筋繊維をほぐし、局部を持ち上げ、身体を山崎の右足と左足の間に沈ませて、髪を片方の手で書き上げながらブロージョブを始めた。弓子よりも優しいそれに、山崎は下半身の力が抜けるのを感じた。だが次第に罪悪感が襲うようになり、ストップといって中断させた。


 女の表情は一瞬引きつった。相手が肉体的な痛みを感じていないことが分かると、安心したようだった。中断の理由を疑問詞だけで尋ねる女に、山崎は自分には恋人がいて悪いと思ったからだと、相手に分かるような簡易な表現で伝えた。女は笑顔をみせた。


 終了時間前に着替えを済ませ、玄関に向かうと、全裸の少年が立ったまま、大声で泣いていた。タイ語で何かを訴える少年を女は抱かかえ、接客を中断し奥の方に消えていく。


 「ハーチャイルド。ハングリー」


 巨漢の男は途端に優しい目をして、山崎に言った。出口で男が貪欲に入場料を要求した理由が分かった気がした。


 逆川はその晩、ホテルには帰らなかった。彼を待つ義理はないし、その日の夜から雨が降り止まなかったので、バイクにはどうせ乗れないのだと思い、翌朝になってバスターミナルに一人で向った。すると山崎の視線の先にずぶぬれになった逆川が遠くから、おおい、といって右手を振るのが見えた。左手にボストンバッグを抱えている。


 「話があるんだけどさ、少しだけ。中身何だと思う?」


 嫌な予感しかしなかった。


 「何黙っているんだよ。いいから聞けって。昨日の女の子、あそこの店のボス猿っぽかったからさ、チップ積んでね、宝石を安く買えるところに連れて行ってくれって頼んだんだ。そしたらタイ人以外は出入りしない密売所みたいなところに行けてさ。ちらって開けるよ、みてよ、ほら。大量の宝石。ルビーにオニキス、ダイヤもある。カードで全力で買ったんだよ。でも後からよく考えると、俺ひとりじゃさばけない量なんだよ。だからホテルに戻って、フロントのボスみたいな人間にまたチップ弾んでさ、外国人向けの販路がある業者で高く買ってもらえるところはないかと聞いたら、住所の書かれたメモを渡してくれて。ただね、ひとりでは絶対に行くなというんだ。危ない人間も出入りするところだから複数人で行けと。一緒に来た日本人でもいいからというんだ。だから必死に探したよ。何で勝手に帰ろうとしているんだよ」


 ボストンバッグの中身はどうせガラス玉で、フロントのボスもボス猿女もみんなグルなのだろうと思ったが、逆川はしつこかった。指定の場所に同行するぐらいならいいだろうと思ったのが運の尽きだった。雑居ビルの2階にある部屋に入って木製ドアを閉めた途端、男2人が現れてピストルを突き付け、所持品を全て机の上に出すように命じてきた。横にいた逆川も、集団の一味だった。リュックから財布やデジタルカメラ、携帯電話、パスポートを奪うと、山崎をドアの外に追い出した。


 急いで往来に出て、ポリスボックスに駆け込み、煙草を吸う警官に雑居ビルで財布を強奪されたと訴えた。すると警官は、捜査をしてやるから千バーツを支払えと右手を差し伸べてくる。そんな金はないと突っぱねた。残念そうな顔をした警官は煙草を路面に投げ捨て、往来に停めたバイクのエンジンを掛け、バーバーボーボー、と言って口角を上げ、手を振って走り去っていった。その言葉の響きが鮮明に記憶に残り、帰国後、インターネットで調べると、変態的な馬鹿というニュアンスで使われていることを知った。


 セキュリティーに不安のあった安宿に貴重品を置いたままにするのは良くないと思い、衣類以外の荷物をリュックに詰めて移動したのが裏目に出た。


 一文無しになった山崎は、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。街を歩くすべての人間が敵のように感じた。明らかに自国民ではないアジア系の旅行者がバスターミナルのベンチで、カバンもなく佇んでいるのは異様だったに違いない。堪りかねたタイ人男性が声を掛け、果物を後ろの荷台に山積みにしたピックアップトラックを指差し、今からバンコクに行くから乗せてやるという。山崎の警戒心はこれまでになく強まっていたが、農家の素朴ないで立ちと、そんなところにいてはダメなのだと訴えかけるような男の眼力を信じることにし、助手席に飛び乗った。男は市場に行って果物を売る前に、日本大使館に立ち寄り、門の前で降ろしてくれた。この旅行が山崎の人間観を揺るがしたのは間違いがなかった。目標を達成できなかった結果自体も、意識の澱(おり)となり、自己を容易に否定する性向を強める要因となった。 

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