第23話 シニアラッキー協会は解散!

 「さみ。さみ。お皿、お・さ・ら」


 誰もが愉しんでいた沈黙の時間を、1人の入居者の大声が台無しにした。車椅子を揺らしながら、老女が叫び続けている。

 

 「さみ、さみい」


 《おいばばあ、うるさいねん》

 《お前もばばあやないか》


  「誰やばばあいうたの。さみ、そいつにな、黙れいうといてや」


 職員は老人達の集団心理が不安定になっているのを察知し、食堂に駆けつけてきた。


 「とみ子さん、どうしたの? 最近いらいらしていない?」

 「皿さげて、皿。さみ呼んどんのにきいひん。どこいったん?」


 職員はとみ子の車椅子の脇にしゃがみ、目線を床と平行にして言った。


 「サミフはね、召されたの。この前も言うたけど、忘れてもうたん?」

 「逝ったんか」

 「悲しいお葬式やったよ」

 「ああ、そうか。呼ばれてへんけど、親不孝もんやな」


 とみ子は表情を強張らせ、職員から目を反らして空を見た。


 「とみ子さんの大好きな親子丼、向こうで用意し、一緒に食べようゆうて待っているんだと思うわ」


 大和三山に数えられる香久山(かぐやま)のそばに構える施設では、食堂から黄金色に染まる明日香村の田畑が一望できる。古民家の狭間を縫うように流れる小川と、山肌に群れる緑は、都会で育った者にすら懐かしさをこみ上げさせる。


 シジュウカラのさえずりには、荒波に揺すられた時代の辛苦を忘却させる霊力があった。設備は古めかしくても、立地環境は特筆すべきものがある。認知症のとみ子の余生にも、幾ばくかの癒しをもたらしているのは確かだった。


 事務室で、小山内サミフが使っていた机の上には花が生けられ、力士時代の笑顔の写真が立てられている。新人ながらも周囲を和ませる個性が突然奪われ、職場の人間が喪失感と現実に向き合いつつある一方で、認知症の入居者らは忘却の海を変わらず泳ぎ続けている。


 「そうそう、とみ子さんね。NPOの担当の方からお手紙届いているのよ。ボランティアの方のお手紙。敬老の日には間に合わなかったけど。読み上げあげようか?」


 とみ子はまだ空を見ている。


 「持ってくるからちょっと待ってくれるかな」


 事務室にある入居者用のレターボックスから、身元保証サービスを手掛けるNPO法人からの封書を手にし、職員は再び食堂に戻った。とみ子はうとうとしかけていた。


 《前略。いかがお過ごしですか? 施設の皆さんとはうまくいっていますか? 私は毎日の仕事に追われています。疲れがひどく、朝晩は眠たくて仕方がありません……》


 「そんなんやったら、ゆっくりしてけばええのに、ああ」


 とみ子の口から涎(よだれ)がだらしなく滴り落ちる。寝言だと気付いた職員は、手紙の読み上げを中断することにした。


         *


 「サミフがいなくなってから、ひどくなっている感じがします」


 職員が事務室で同僚と話し合っている時、施設長の向井が、えらいこっちゃと独り言を言いながら、携帯電話と新聞記事のコピーを手にして小走りで入ってきた。背は低く小太りで髪を七三に分けた黒縁眼鏡の中年男性は、遠くからみたら達磨のように見えた。職員の誰もが、向井が管理職にありながら遅刻癖があるのを知っている。昼頃に出社するのは珍しいことではないが、この日は様子が違った。


 「きょうは二日酔いちゃいますの?」


 とみ子への手紙を手にした職員が声を掛けた。


 「身元保証サービスやっているNPO法人があったやろ。シニアラッキー協会。あそこの理事長がな、客が支払った契約金を私的に流用してな、ほんで法人ごと解散して身元保証サービスもやめるいうてんねん。えぐいやろ。うちの入居者で使こてる人おるか?」

 「あそこならとみ子さん使こてますよ、ほら」


 先ほど読み聞かせた文書の封筒に、差出人としてNPO法人の名が記載されている。


 「別の団体とかあんのかな。そもそも手続きのやり方とか、カネの入り繰りがどうなるのかすら分からん」


 別の職員が口をはさむ。


 「とみ子さんは、息子さんいてはるでしょ。全然来えへんけど、ほら。東京でもうずっと顔を合わせていないからいうて、入所の時に連れ添って来られた司法書士の先生が言うてたやんか」


 向井は思案顔で言った。


 「あの先生も相当な歳やで。別の団体探しても、なんぼか契約金払え言われたら、とみ子さん困るやろしな。息子さんに来てもらって話を付けるのが一番ええんちゃう?」

 「そうですね。あの先生、自分で息子さんに手紙書く言うてたぐらいやから、連絡先知ってはると思います。聞いてみますわ」


 認知症が今以上に進めば、実の子が来ても、まるで人形をみるようにしか接することができなくなる恐れが高まる。とみ子が朦朧とした世界に漂流する果てしない時間が訪れる前に母と子が再会する最後のチャンスなのかもしれないと向井は考えた。


 ──同じ日、警視庁の報道担当者は、記者クラブ加盟各社に午後10時から緊急のレクチャーを始めると伝えていた。刃渡り15センチ程度の包丁を所持した女性に捜査員が任意同行を求めたところ、突然襲いかかったため、公務執行妨害の現行犯で逮捕した。慣習でテレビカメラが入れないレクチャーに出席した記者は、メモを片手にデスク直通の番号に電話をした。被疑者の年齢は24歳で東京都在住の自称ユーチューバー、浅沼葉子。身柄を拘束する際に女性は意味不明な発言を繰り返していおり、尿検査では覚せい剤の陽性反応が検出されたという。過去に脅迫予告の動画投稿を繰り返していたとみられることから、余罪を追及する方針だとしている。

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