第19話 ハレルヤワイナリーから中継

  ドアを開けると、川本千夏がキャリーケースを提げたまま、ずぶ濡れになって立っている。


 グレーの無地のトップスに、黒のパンツルックという素朴な服装は変わらなかったが、ネイルはいつもより飾られ、肩辺りにあった髪は後頭部で束がねじられ団子にまとめられている。肌はいつもより明るく、ラメの入ったアイライナーを使っていた。視線を床下に落とす彼女を二宮麻友は部屋に招き入れた。


 外は雨だ。中秋の夜の涼しげな空気が、湿気のある玄関に入ってきた。川本の手に傘はない。


 「京都は雨じゃなかったの?」


 麻友の問いかけに、川本は頷くのが精いっぱいだった。身体を温めたがる彼女の欲求に応じない理由はない。


 橙色の光で満たされたシャワールームから温水の流れるのが漏れ聞こえてくる。麻友はバスタオルは洗濯機の上の棚に収納されていると伝えた。狭いキッチンに備え付けられたガスコンロの上には、ビーフシチューの入った鍋と、ピラフを炒めたフライパンが待機している。10分ほど経ち、バスタオルで胸から腰を隠した川本が出てきた。うつむいたままリビングの絨毯の敷かれたあたりまで足を運び、腰を下ろすと横になった。肌の張りは変わりがない。


 「風邪ひくよ。それにご飯食べていないでしょ」


 ビーフシチューとピラフを皿に盛り付け、冷蔵庫に入れておいた海藻サラダに和風ドレッシングをかけて、こたつ机の上に置いた。川本はバスタオル姿のまま動かない。メイクを落とした顔は、無表情のまま、窓側の上のベッドの上にあるぬいぐるみの方に向かっている。麻友は何も言えなくなった。こたつ机の上のノートPCを持って、ベッドに横たわり、うつぶせになって、事務所から受信した編集後の動画をヘッドフォンを耳に着けて確認することとした。山崎の後追いで取材した福島県の鍛造部品メーカーだ。川本は夕食には手を付けず、そのまま眠ってしまった。


 アスパのチャンネルは運営会社の判断で削除されたが、日を置くことなく新たなチャンネルが立ち上がり、川本の過去を暴いた動画が投稿された。チャンネルはその都度、すぐに削除されたものの、SNSで動画は拡散され、ネットのまとめ記事にも仕立て上げられ、麻友の目にもとまった。


 麻友はバスタオルが覆う川本の裸体を想像した。色黒の男性に次から次へと抱えられ、快楽と苦痛に溺れた女の姿が重なる。どうせここで裸体を隠すなら彼女のものではなく、異性であってほしかった。アスパの過去を話題にする掲示板の書き込みも目にした。


 麻友に残る男の感触は、不完全なままだ。


 川本が所属する芸能プロダクションは彼女との契約をすぐに打ち切った。川本からのショートメッセージを受け取ったのはその日の午後5時頃で、マンションに姿を現したのは2時間後だ。詳しい事情はとにかく、しばらく泊めてほしいという。すでにその事情に触れているのを前提としたような言い方だった。分量を2人に増やして料理をする羽目になった麻友は、2時間少々でマンションと京都を結ぶ新幹線の速度に驚いた。


 深夜、ふと起き上がった川本は、眠りに入った麻友を起こし、酒はないかと聞いてくる。食器棚の収納に赤ワインが何本かあると伝えると、グラスと赤ワインのボトルを用意して、冷めた夕食の皿のラップをはがし、独り晩餐を始めた。麻友はそのまま眠った。


 翌日、2人はドライブした。麻友には仕事がなかった。


 海と山のどちらがいいかと聞くと、川本は山がいいと言う。麻友も同じ意見だった。冬になればスタッドレスに履き替えなければならない。


 首都高速の入口に向かいながら、ハンドルを握る麻友は助手席の川本から、東京にいる時間はあなたの方が長いから、ドライブのコースを決めてくれと言われた、山となれば北関東か甲信越だ。那須や日光と言えば、福島の近くなので嫌だと言われると思い、麻友はあえて候補から外した。群馬と茨城方面は事故で渋滞していた。消去法で、甲府盆地を目指すことにした。ワイナリーを回り、日帰り温泉があればつかることに決めた。


 中央道で何度か渋滞で足止めを食らい、笹子トンネルで遅い軽自動車を抜かした。この車体で遠出するのは、山崎と会った日以来だ。


 山崎もサングラス姿で、川本の裸体を目にしたのだろうか、欲情したのだろうか、それとも幻滅したのか。助手席の女性は心地よいエンジン音を子守り歌に再び眠りについている。


 葡萄畑は収穫の真っただ中だ。


 地元の商工会がワイン祭を今週末に開く予定で、特別価格で山梨産ワインを提供することになっていた。それを知ると、今販売されるワインがどれも割高なもののように感じる。運転できない川本は試飲を重ねて顔を赤らめ、二宮は店主と交渉し許可を得てから、川本が映り込まないように配慮しながら動画を撮影する。別に事務所から頼まれたわけではないけれども、記録に納めたい気分だった。


 酔っぱらった川本は、ワイナリーの庭に出ると、突然、自分を撮影するフリをしてほしいと願い、顔面の筋肉の緊張と弛緩を幾度か繰り返した。


 「はい、きょうわたしがまいりましたのは、山梨県の甲州市にある、ハレルヤワイナリーさんです。空気がとっても綺麗で、風も爽やかです。今週の土曜日と日曜日に、甲州市内のワイナリーが、恒例のワイン祭を開催する予定とのことで、一足先にやってまいりました。あちらの石造りの建物には、収穫された葡萄から作られたワインが樽のなかでじっくりと、熟成しているのです。さっそくまいりましょう。どうかな、まだいけそう?」


 麻友は言葉に詰まった。


 かわもっちゃん、きっと時間が経てば、元の世界に戻れるよ、樽に例えるのは失礼かもしれないけど、きっと今回の出来事は洗浄工程のひとつだよ、と言ってあげるのが適切なのかどうか分からなかった。私は防菌処理が施されているけど、彼女は色んな菌がついたままのような気がするし、洗浄工程も一回ではすまなそうだ。


 「意外にいいところだったね」


 昼食は甲府で、ほうとうを食べることで2人の意見は一致した。酔った川本は当てずっぽなメロディーをつけて助手席で歌う。


 「あたしはねー、四国そだちのー、競馬の好きなー、ほうとうむすめー、ほうとうむすめー。万葉集では歌われないー、高知が産んだ、ほうとうむっすーめー。世界が回ってるー」

 「万葉集って何? 高知は歌枕がゼロなの?」


 麻友も放蕩娘のきらいがある。映画研究会のドアを開けた時、川本が漫画を読みながら、入会を希望する麻友に対し好きな映画を聞いた。シービスケットと答えた麻友に、


 《あたしも好き! 犬のおやつみたいな名前だけど、あれ見て競馬好きになったんだ》


と答えてくれたのを思い出した。互いに3回生で、年齢も同じだと知るや否や、研究会の3回生で女性は自分だけだと言い、二宮は何で編入したの、出身どこ、学科は、今どこに住んでいるの、映画作らない、と畳みかけるように質問した。川本の存在は、相談相手のいなかった麻友の大学生活での力強い支えとなった。


 熱々のほうとうで汗を流した川本は、次第に酔いも覚めていった。温泉に行くにはまだ日が高く、城のある公園にでも行こうかと二宮は考えていたが、川本は市街地へ向かう幹線通りに設置された商業施設の看板を目にし、映画でもみないかと提案した。


 看板の向こうの畑で、緑と黄に塗装されたタイヤの大きなトラクターがひっくり返っている。台風のせいなのかと二人は目を点にする。ジョンディアならぬ、ディアジョン。


 昔よく2人で映画に行ったね。日曜日だと二宮は断るもん。時間制限もあったなあ。律義にお母さんの言いつけ、二宮よく守っていたよね。へへへ。


 ショッピングセンター内の映画館は訪れる人も少なく、閑散としていた。スクリーンの1つが過去に上映した映画専用としてあてられている。2人が到着した30分後に『親愛なるきみへ』が上映されることとなっていた。震災のあった年に日本で公開された米国映画だ。


「この映画観たことある。いいや。行こう行こう」


 川本は急に冷めた表情をし、チケット売り場から背を向けた。麻友は一緒に観た記憶がない。誰と行ったのもかあえて詮索することはなかった。


 どうせなら1泊したいと川本は言う。彼女のわがままは嫌ではなく、麻友もそうしたいと思った。着替えの用意をしていなかったのでバーゲン品の下着やメイク用具などを購入し、立体駐車場に戻ってから甲府市内をうろうろし、運転する麻友の横で川本は繁華街にあるビジネスホテルを予約した。もともと日帰りのつもりだったし、思い付きの宿泊旅行で派手におカネを使うのは憚られる。


 夕日に照らされる富士が見える温浴施設では2人は適度な距離を保った。職業柄、美容に熱心だった川本は塩サウナと岩盤浴を行き来し、忘我の域に入った。麻友は露天風呂に長く漬かり、取材で群馬の山に近づく機会がなかったことに今さらながら気付いた。でもいいじゃないか、日光のある女峰山のほうが明るそうだし、男体山が守ってくれそうだし。


 日が暮れ、ビジネスホテルに向かう途中で、スーパーに立ち寄った。冷蔵された馬刺しを目にした川本は食べたいと言った。馬肉にあうワインを探していると、農機メーカーの帽子をかぶった老人が声を掛け、スパイシーな爽快感が合うという1本2000円する地元産の赤ワインを勧めてくれた。


 2人はホテルでバスローブ姿に着替えた。川本はグラスで楽しみたいと不満を言いながら、備えつけのマグカップに赤褐色の液体を注ぎ込む。酒を控えていた二宮は遠慮がちにワインを口に含ませた。馬刺しと合わせると、老人の言葉に間違いはないと感じた。ホルモン炒めとカットされた桃、高原レタスのサラダに男爵コロッケ。納豆巻き。それぞれの好みに合わせて買った惣菜が、ベッド脇の卓上に並ぶ。


 地上波放送しか写さないテレビが、いつものように首都圏のニュースや天気を伝えている。女性キャスターが、はきはきとした声で、地元出身の力士の取り組み結果を伝えている。


 麻友はワインと惣菜を口に運ぶのをいったん止めて、1日中、彼女に訊きたかったことを、言葉にした。


 「これから、どうするの?」


 川本の表情が歪む。


 「もう少し考えたいな。いや、考えること自体に飽き飽きしちゃった」

 「私のところでいいなら、ずっといてもいいんだよ」


 言葉の響きに嘘っぽさがあるのを川本は聞き取った。


 「すぐに働くところは決めるから大丈夫。絞らなければあるでしょ、このご時世」

 「私と一緒に仕事する?」


 麻友はすぐに後悔した。


 「ごめん、そういうのはもういいや」

 「そういうつもりではなくて。あの、何もしないよりはいいと思ったから」

 「いいんだよ。あたしが二宮だったら同じように言うと思うし」


 相手の心を傷つけまいとする川本の優しさに救われた気がした。執着心の強い人間ならば、感情的になってもおかしくはなかった。


 川本も、麻友に気を遣わせている自分が情けなかった。


 暴かれた過去の自分を、彼女が紹介してくれた山崎が目にしたのだと思うと、寂しさがこみあげてくる。身を委ねかけた男が動画を目にし、自分を軽蔑する絵が頭から離れない。

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