第17話 周りから堕ろせと言われて
正美は下腹部に目を遣る。その瞳を見て、彼女が出産したがっていると麻友は察した。
「砂川の。周りから堕ろせって言われている」
横の女性の苦悶に少しでも共感したほうがいいと半ば義務的に自分に命じたが、何も言えなかった。
(あなたの人生じゃないですか。性欲を抑えきれず、肉の喜びを味わって、親に言われてどうしようって。苦しんだらどうですか、ビッチ)
思いもよらないぐらい汚濁した言葉が、自分の胸から飛び出しそうなのを、必死に抑えている自分に戸惑っている。まだ目にできずにいる男の体液を、目の前の女が体内に受け入れたのである。
「でも砂川はね、産めって言うの。市役所入ってすぐに産休って、そんなの格好悪いことじゃないって」
(良かったですね、制度が整っていて)
門限になんとか間に合う電車が来る時刻まで、麻友は正美のそばから離れずに、一言一言に頷くことにした。公園近くの踏切が幾度か、遮断器を上下させた。
話を聞けば聞くほど、正美がすでに自分で決断を下し、知人に同意してもらい、安心したがっているのが分かった。麻友は、滑り止めで受けた試験に不合格になった気分だった――。
それから2年あまり経ち、高校の延長線上にあるような短大を出た後、母の紹介で勤めることになった介護施設には、かつて通った中高一貫校の出身で、麻友より2学年先輩の女がいた。彼女は系列の大学に進んだ後、アルバイト先のピザ屋の店長と付き合い、一子を設けた。出産と育児に専念するため大学を中退した時、店長の浮気が発覚した。離婚後、シングルマザーとなり、子育てをしながら職探しを続け、何とか施設職員としての採用が決まった。
彼女は中間一貫校を卒業できなかった落ちこぼれの麻友がいわゆる「コネ」採用で、自分が苦労して入った空間にいることが認められないようだった。女性の多い職場で、麻友は集団から疎外されがちになり、昼食は独りで摂ることとなった。独身の麻友には、育児に忙殺される同僚の、業務時間中に消化できなかった雑業務も集まるようになる。麻友には相談相手がいなかった。
残業が続き、休日も出勤するようになった。やがて同僚がいつものように仕事をしていても、自分のことで陰口を叩きあうのが聞こえる気がしてきた。
直属の上司が麻友の異変に気づき、職場の人間同士尊重し合って、業務に臨むようにと、メールで指示を出した。麻友には悪夢だった。自分を疎外するための職場内での集団の結束力が一段と強まったように感じた。
麻友が正美と偶然、街で再会したのは、その頃である。
市役所勤務の砂川正美は、2人目の生命を腹に宿していた。休日出勤を終え、駅に向かうバスに乗ると、一番奥の席に座っていた正美と目があった。
「ちょっとやつれたんじゃない?」
正美は携帯電話を取り出し、帰宅が遅れるので子どもの世話をもう少ししてくれないかと義理の母に小さな声で頼んだ後、バスを降車したら近くのスーパーの喫茶コーナーに入ろうと、母としての貫禄を感じさせるような言い方で提案した。妊娠中であることを割り引いても、正美の目方は高校時代よりも増えたように見える。
「仕事、大変?」
紙コップに入ったホットコーヒーは想像以上に熱かった。
「お母さんにまだ言えないけど。実は辞めたい」
今まで自分のなかで言うまいとしていた一言が、正美の前では簡単に出てきた。胸のつかえが取り除かれると、自然と、麻友の目から涙があふれてきた。日曜日のスーパーの買い物客には南国の奇怪な生物に遭遇したように、2人を遠目で見る者がいた。正美はそんな視線を意にも介さず、ポーチからハンカチを取り出し、麻友の涙を拭いてあげた。麻友が泣き止んで落ち着きを取り戻すのを、何も言わずに待っていた。
しばらくしてから、麻友はゆっくりと、自分の置かれた状況について説明を始めた。口を開けば開くほど再び目に涙があふれてくる。正美は麻友の二の腕を摩ってから言った。
「麻友って本当は、すごく勉強できる人なのだとみんな思っていたよ。お父さんのことや、前の学校のこととか、色んなことがあったのは分かるよ。自分で自分を追い込んで、さらに勝手に思い込んでしまうところも変わっていないよ。……最初はね、きっと私たちなんか、眼中にはないと思っていたけど、いつも間にか仲良くなって。映画も観たし。今でもみんな麻友のことが好きなんだよ」
(あの時心の中で、あんなことを心の中で言ってしまって、ごめんね)
「麻友、英語のテストの点、すごかったよ。羨ましかったよ。東京の大学とか、勉強したら絶対いけると思ったし。逆にチャンスじゃない? お母さんには申し訳ないけど、きっと麻友が活躍できる場があるはずだって」
「……でもなあ」
麻友はうつむいたままだ。
「公務員も悪くはないよ。でもなるなら大学出たほうがいいよ」
「お母さんは安心しないんじゃない?」
「そうかな。今の麻友がさらにひどくなったら、きっと悲しむと思う」
紙コップのコーヒーの表面に映るゆがんだ自分の顔をみると、目が大きく腫れていた。
「もし、受けてみて、合格したらお祝いしてくれる?」
「もちろん。約束する」
職場を紹介した母の顔に泥を塗る行為には、ためらいがあったが、職場環境は一向に改善されなかった。自分に鞭を打ち勤務を続けたら肉体が悲鳴を上げた。秋にはベッドから起き上がれなくなった。
自宅療養中に、外国語が学べる大学で、編入学が可能なところを携帯電話で検索して探してみる。母は娘の新たな職場を探し始め、会社の資料をダイニングの机に積み上げた。娘が起きる時間には経営者として走り回っていた。
正美の言う通り、自分は思い込みで物事の捉え方を余計に複雑にしてしまう傾向があると麻友は感じていた。そんな自分を経営者である母はほとんど1人で育て上げ、なのに自分は負担であり続けている。大人になりきれず、また母に頼ろうとしている。嫌気がさしてくる。
実家から通える範囲で医療や福祉の仕事を続ける限り、母の影響からは免れ得なかった。東京の大学? きっと母は、新幹線を使って自宅から通うことを求めるだろう。まず自分に、1人暮らしを許してくれるのか。目的と理由が不明瞭である限りは、今の状況を打破することはできないに違いない。
秋に入ったばかりの日曜日だった。母が自宅でコーヒーを口にする時間を狙って、大学に編入学し、かつ地元を離れて1人暮らしをしたいと素直に訴えた。
「お母さんの紹介は本当にはありがたいよ。でも医療とか福祉の仕事になるし、そこで会社を変えて働いたとしても、同僚になる人は、フェアじゃないと見るの。あたしがちゃんと人生を歩むためには、自分で決めた道を自分で進んで、その責任を取れるようにならないといけないの」
直子はコーヒーカップをテーブルに置き、娘の瞳に嘘や錯覚がないか確かめようと、視線を集中させた。
「東京じゃだめなの?」
(お母さんあのさ、高校1年生の時)
いや、それは黙っておこう。
「あたしは別に、大学に入って遊びたいわけじゃないの。東京だと誘惑が多いし。簡単に入学できるようなところには行きたくないし。今は公務員になりたいと思っている」
(本当はあいつらの誰かが東京の大学に行っているのを知っていて、駅で顔をあわせたくないからでしょ)
「1人で、しっかりやっていけるの? あなた」
「もう20歳過ぎたよ」
反対する直子への説得は1カ月以上続いた。受験勉強も並行して進めた。
最終的に直子は、正美や砂川と行った前橋ツアーと同様に条件を提示し、合意できれば自宅を出ることを認めると言った。
⑴学業に専念し2年で卒業すること。
⑵異性の住居を尋ねたり、異性を住居に入れたりしないこと。男性と付き合う場合は、具体的にどのような人物なのか報告し、質問に答えること。
⑶大学生であるうちはセックスは絶対にしないこと。
⑷いかなる理由であれ、政治活動には参加しないこと。
⑸利潤を追求する行為はしないこと。
⑹飲酒はしないこと。眠れないときは医者に睡眠薬を処方してもらうこと。
⑺朝昼夜と食事をとること。
⑻日曜日は学業上、必要な場合を除き、マンションで過ごすこと。
⑼朝6時までに起床し、午後8時までに帰宅すること。就職活動中はこのばかりではない。
⑽インターネットを閲覧する際は、大学内で行うこと。
二宮直子が十戒を示した時、麻友は母の愛に感謝した。年末の寒い時期、彼女は初めて1人で新幹線に乗り、試験科目に英語と小論文、面接を指定する京都の私立大学の構内に足を踏み入れた。年が明け合格したと母に知らせた時、母はうつむきながら自室に入り鍵を掛けた。
3月、引っ越し作業を終えると、正美が会いに来た。
「約束通り、お祝い持ってきたよ」
「イチゴだ。美味しそう、やよいひめ、だっけ?」
「やよいひめじゃなくて、女峰。覚えている? うちはまだ栽培しているんだ」
「巨峰は栽培していないもんね」
「やよいひめの方が美味しいと言いたいけど、京都に行くと聞いた旦那が選んだのよ。女峰が西のいちごと出会って、日本一のとちおとめを生み出したように、麻友も西でいい人と出会ってねって」
「勉強しに行くのよ、まったく」
「そうよね」
正美は箱のなかの女峰のひと房を摘まみ上げ、麻友に口を開けるように言った。麻友の口腔内に、酸味が広がった。
「まだ熟していないのね」
「私達みたいにね」
*
──点滴が外された頃には、吐き気は治まっていた。
金髪の二宮麻友は胸のあたりが温かくなるのを感じた。正美の笑顔を思い出したからなのだろう。
ゆっくりと起き上がると、看護師は区の保健センターが用意する心理相談の日時を案内する紙を持って来て、辛い時は1人で悩みを抱えてはだめよ、と言った。この人は生物が得意だったのだろうと麻友は思った。
いずれ死ぬ存在なのに、時に群衆を形成して異質な存在を阻害し、利己的に生殖活動に勤しむ生物を、麻友は体感的にまだ好きになれない。菌類が樹木を侵食するように、必要以上に人との壁を置く癖が精神に深く根付いてしまった。
高校時代に携帯電話を持っていなくても、自己肯定感がもっとあれば卑屈になることはなく、他者と接するために余計なエネルギーを使わなくても済んだはずだ。大学を卒業した後、男性と付き合い、その体液を目にする行為を繰り返し、今や母となったとしても不思議ではないのに、現実は違う。独りを貫き通している。
でも、と麻友は思う。生物に囲まれるのを自分が心底嫌い、ずっと孤独でいられたのかというと、そうでもない。シズカがあの時いなかったら。正美がいなかったら――。想像のできない別の自分が形成されていたに違いない。
その自分が今の自分よりも不幸な毎日を送っているのではと考えてみても、結局は思考実験に過ぎない。目の前の現在に気をとらわれすぎて、自分の価値を不必要に貶めて、不安に苛まれ続ける日々を送っているのかもしれないし、幸福なのかもしれない。
シズカや正美が今、物理的にそばにいなくても、記憶のなかではこうして今でも生きている。何を望むべきなのか。自分だって逆に誰かの記憶にとどまり、ふと夢に現れてその人を励ましていることだって、十分あり得る話だろう。
西空が赤く染まっていた。地下鉄の駅のある商店街の米穀店が、新米の予約を始めたのを幟(のぼり)を立てて伝えている。横のペットショップでは、カナリアや文鳥が籠に閉じ込められていて、薄い空気の中で咳込むように、喉を震わせていた。
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