第16話 巨峰好きの同級生

 年が明けると、麻友は公立高校に転校した。私立の中高一貫教育校から籍を移すのは珍しい。学校でいじめにあったか、学費のねん出が難しくなったかのどちらかだ。受け入れの枠があったのは、人口規模が一定以上であればどこにでもあるような隣町の普通科だ。ブレザーとブラウス、そしてキュロットを捨て、クローゼットには紺色のセーラー服とスカートが吊るされた。


 噂を掻き立てる同級生を麻友は警戒したものの、携帯電話を持たないオール3組の女子は意外に多く、体育の時間で身体を動かしあううちにやがて打ち解けることができた。高崎の病院での臨床心理士によるカウンセリングのペースは、週1回がやがて1カ月に1回になった。


 1晩の経験が麻友の妖艶さを強めたのか、2年生になると、彼女に好意を寄せる男子が現れた。イチゴ農家の長男の砂川輝だ。


 「二宮さ、日曜日空いていたら、映画でもみんなで観にいかない?」

 「みんなならたぶんいいかな。お母さんに聞いてみる」

 「返事待ってるからな」


 母に、同じクラスにいるオール3組女子の携帯電話を持てない派の3人と、テストの順位は同じぐらいの水泳部の男子3人による『前橋合同ツアー』に参加してもいいか聞いた。母は困惑した表情を浮かべ、参加には、


⑴午後6時まで帰宅すること。遅れる場合、捜索願を出されたくなければ、電話で連絡すること。

⑵必ず公共交通機関を使うこと。バイクの同乗は厳禁。

⑶映画のタイトルを事前に知らせること。セックスや暴力、公序良俗に反するシーンがある映画を提案されたら、親が禁止していると正直に言うこと。恋愛映画も望ましくない。


という3つの条件への合意が必要だという。


 率直に事情を伝えると、オール3組・ケータイ未所有派の1人で今回のツアーに参加する神谷正美は「麻友のお母さん優しい人ね。うちなんか放置よ。なんか羨ましい」と、逆に好意をもって受け止めてくれた。神谷の両親は市役所勤務だ。


 男子の目には、母に宝物のように大切にされる麻友の神秘性がさらに高まったようで、砂川は参加予定者に、彼女が母と結んだ約束を固く守ることを求め、少女漫画が原作の恋愛コメディではなく、使い古された玩具らが乱舞する米国映画の第3作目を見ることに決めた。


 麻友は砂川の配慮が嬉しかった。母に映画のタイトルを伝えると、くすっと笑った。セックスや暴力を描写した映画は、大人になったら観ればいい。


 6人の高校生は私服に着替え、午前10時過ぎに前橋駅近くで待ち合わせをした。最寄りの商業施設には歩いて向かうことになっていた。


 父以外の人間と映画を観るのは初めてだった。否が応にも父と街を歩いた記憶が浮かぶ。雑談に花を咲かせる集団のなかで、麻友は桔梗(ききょう)の花のような清楚さをもって一幕に彩りを与えている。


 捨てられそうになった玩具同士の結束と友愛。ハッピーエンドが約束された商業映画を6人は、そういうものと知りながらも純粋に楽しみ、心が躍動する時間を共有した。仮にある階層の人間から馬鹿にされても、どうせ馬鹿だし与えられたもので楽しむべきなのだと言い返せるような、彼岸頃の秋空のような質朴さを一同は持っていた。映画が終わり、暗闇に光が差し込んだ。麻友の周囲の5人はみな爽やかな表情をしていた。麻友はこの仲間でまた映画を観に行きたいと思った。


 商業施設を散策し、フードコートでソフトクリームを食べ、互いの進路について話した。進学するならどの学校を受験するのか、進学しない場合は何をするのか、その決断をするように、周囲から圧力が掛かっていた頃である。


 「麻友はどうするの?」


 神谷正美の目は澄んでいる。


 「うちはお母さん1人だから、地元に残る側かな。勉強は得意じゃないし」


 麻友は、仮面の内側の深いところでは、もう一度ツグミになりたいと願っている自分が、まだ消えていないような気もしていた。


 《へえ意外。麻友は県外に行くんだと思っていた》

 《俺も、二宮は本当は勉強すれば東京の大学行けると思うんだけどなあ》

 《ねえ。6人みんな地元組じゃない?》

 《ごめん、俺はひょっとしたら、東京組になるかも》

 《あ、地元捨てるんだ》

 《親父がさ、会社で東京本社の人間に頭下げてばかりいるからさ。だから東京の大学にいって向こうで就職しようと思うんだ》

 《神谷はどうするの?》

 《公務員試験受ける。砂川は?》

 《実家継ぐ》

 《いつかイチゴただでちょうだい》

 《腐りかけのやつやるよ》

 《ひど》

 《ははは》


 話は尽きることはなく、いつしか時計は午後3時を回っていた。


 商業施設を後にし前橋駅に戻ると、雑談が止まないのを遮って「電車がストップしている」と正美が言う。


 麻友は午後6時までに帰宅させなければならない。砂川は公衆電話に走って、電話で母と話し合った。すると近くの農産品直売場にいる砂川の叔母がワンボックス車で駆け付けてきた。1人ひとりの家の前まで乗せてやるという。一同はみな胸を撫でおろした。


 後部座席の3列目の窓側にいる麻友の横には砂川ではなく、正美がいた。砂川は助手席で、イチゴの品種とその特徴について知識を披露している。


 「品種改良でもっと美味しいのが出ると、世の中に出回らなくなるのもあるんだ。栃木の『女峰(にょほう)』みたいにね」


 神谷が質問する。


 「先生。栃木って『とちおとめ』じゃないんですか?」

 「病気になりやすいので、西日本で作られていた『とよのか』と、女峰を掛け合わせて、さらに栃木で生まれた別の品種と掛け合わせたのがとちおとめ。ちなみに群馬のイチゴの名前は、みんな知っているよな」


 沈黙のなか、運転手の砂川の叔母がため息をした。女峰は山だから、あかぎ? ブー。はるな? ブブー。みょうぎ? ブブブー。


 「やよいひめ!」


 ああ、やよいひめね。


 「ご先祖さんが女峰なのには変わりないっぺ」


 砂川の叔母の口調は荒々しかったが、制限速度50キロの道路を50キロで走る律義さがあった。


 「あたしはイチゴより葡萄が好きだなあ。女峰よりも巨峰(きょほう)」


 艶っぽさがある麻友の一言に、砂川はまごついた。その反応が可愛らしく、頼りない兄のようにみえた。好きだとはっきり言ってくれれば彼女になってもいいけど、今の砂川ならよくて膝枕までかな。


 ──砂川の父が雑木林で首を吊って死んでいるのを、散歩中の近所の老人が発見したのは、その3日後の話である。オートレースにのめり込んだ挙句、闇金融で借金を重ねたことが50代の男を死に至らしめた。2年前、煙草の不始末が原因でイチゴ農園で火災が発生した際、消防設備の不備を理由に、保険金の一部が支払われなかったことも男を追い詰めた。


 長男の輝は家業を継ぐため、高校を退学しなければならなくなった。

 

セーラー制服姿で通夜に出た麻友は、砂川の顔から生気が抜け、別人になっているのを見ている。同級生や担任の弔問に感謝の辞を述べたのは砂川の母で、長男は殻に閉じこむかのように、セレモニーホールの控室から出てこなかった。砂川の退学を仲間は悲しんだ。麻友も心を痛めた。


            *


 いつか砂川のイチゴ農園に足を運ぶことを約束した5人は3年生になり、卒業後の進路の準備に時間を奪われるようになった。二宮直子は、学校生活や学業で特筆すべきところのない娘の将来を案じ、付き合いのある学校の幹部に声を掛けてみようと考えていた。娘の過去を考えると、県外に出して1人暮らしをさせるのは危険だった。娘も母は自分を県外に出すことはないと諦めていた。


 麻友が高校1年の半ばまで通った中高一貫校は、多くが東京の大学に進学するが、内部推薦で系列の大学に進む者も一定の割合でいた。半面、地元にある看護系の短期大学や専門学校に進む者は少ない。


 医療系なら就職先に困ることはない。麻友は試験科目で必須の英語と数学、さらに生物と化学の選択科目のうち化学を選択し、受験勉強に集中した。いつの間にか生物は苦手科目となっていた。定期テストの生物の点数が平均を大きく下回っていた彼女に、化学での受験を勧めたのは担任教師である。英語は勉強すれば勉強するほど成績が伸び、高校3年生の夏休み前の定期試験では学年でトップとなった。掲示板に二宮の名があるのをみて、正美は「麻友、すごいね。外国語の才能あるんじゃない?」と素直に喜んだ。


 正美は早々に高卒者対象の市職員の採用試験に合格していた。


 その夏、麻友は母の職場に勤務する看護師と話す機会を得た。生物の成績が悪いから化学で受験することにしたと告げると、それだと入った後がすごく大変だ、と聞かされた。


 「体力がいる仕事だしね。お母さんが倒れたら私たちがちゃんと看護するから安心して。麻友ちゃんが幸せになるには、社会に出た時にね、病院の跡を継げるような男の人と出会えるようにならなきゃ」

 「看護以外だとどこがいいんだろう?」


 麻友は答えを出せず、結局母に助言を求めた。消去法として残ったのが、志望していた短期大学にある福祉系の学科だった。高齢化社会にあって、資格があれば何かあった時に潰しが効くからという、母の一言が娘の決断を後押しした。老人の相手には変な自信もある。


 大学受験組は秋になると、目を覚ましている時間の大部分を勉強に捧げるようになった。互いに適切な距離を置くことに気を配る時間は、麻友には心地が良かった。正美が1週間ほど学校を休み、久しぶりに登校したある日、授業後に少しだけ2人で話をしたいと言った。彼女も受験勉強をしていると麻友は錯覚していた。


 「あのさ」


 線路脇の児童公園のベンチに2人で腰を掛けると、濃度の高い墨汁を垂らしたような目を下に向けたまま、正美は切り出した。


 「子どもができちゃった」

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