第15話 大人になったらデートしようね
女性らは1人、また1人とカーテンの外に出て、澤辺に挨拶をして店を後にした。ツグミはまだ取り残されている。
胡弓の響きが空しく響いている。
玄関から聞こえる音から、澤辺は今、紙幣の枚数を数え、確かめているところだと察した。すると来店客を告げるチャイムが鳴る。
「1時間半、空いていますか?」
「ええっと」
売上が十分であれば澤辺は断っていたのかもしれない。
「少しだけ横になりたいだけなんです」
澤辺には、過去に同じようなことを言った客を、女性のいない部屋を案内し、女性の横で横になりたいという意味なのだと怒鳴られた経験があった。新入りが時間を持て余しているのに、比較的多忙な1日を過ごした中国人女性に客を割り当てたら、彼女らはますます不平不満を募らせるに違いない。
「未経験の子でもいいですかね」
「お任せします」
「じゃあ、ご案内します、ツグミちゃん、お客さん」
ダウンコートに身を包んだ男が入ってきた。疲れ果てている。それでも黒縁の眼鏡の向こう側にある瞳はまだ生きていた。見た目は30歳前後で体重は70キロ前後だろうか。顔は縦長で、目は丸く窪みやや左右に垂れ、口は力なく短い真一文字を描いている。体型はガッシリとしている訳ではなく、昼に出会った不動産屋の男性と比べると、どこか野暮ったく、子どもっぽい印象はあるが、かえって人の好さもにじみ出ていた。
「イラシャイマセ」
男は自分からコートとジャケットを脱いで、ツグミに渡した。ワイシャツが包む腹が力なく弛んでいる。後ろポケットから取り出した携帯電話には、筆のように先が丸く尖った動物の角を模したストラップが吊るされていた。
「寝るね、気にしなくていいから」
鼾(いびき)をかき始めた男をツグミは壁にもたれながら観察していた。男は5分ぐらいして、突然、あ、はい、すみません、すぐやります、などと、寝言を発し、寝返りを打った。最初は老人の世話をし、今日の最後は子守りすることになるとは思いもよらなかった。ツグミにも睡魔が襲い始めた。
10分ぐらい経った。今度は男の携帯電話が着信音を鳴らした。すぐに男は目を覚ました。会社からの電話だ。
《もう出しています、はい。チェックしました。お疲れ様です》
電話を切ると、壁のあたりで小さくなって眠りに落ちようとしているツグミを男は一瞥した。18歳とは思えないほど若い。引き出しのあるあたりにもたれかかり、足を前に突き出しながら、チャイナドレスの股の奥が見えないように両手を太ももの上にのせて、首を上下させている。中国でも育ちのいい女性に違いないと思った。
外は寒い。目を覚ました男は、時間いっぱい休んでいたいと思いながら、することもなく、いたずらにティッシュを撚(よ)り、ツグミの鼻腔に入れた。ツグミは顔をしかめ、くしゃみをし、眠りから覚めた。すぐに自分が接客を怠っていることを反省したのか、正座した。男はその仕草をみて、中国人ではないと察した。
「中国人の正座はお嬢様座りじゃなかったっけ」
ツグミはお嬢様座りをした。
「お嬢様座りなんて言葉、よく知っているね。中国人じゃないでしょう?」
「はい。すみません」
指示された通り白状するツグミがおかしかった。演技力のなさを痛感している目の前の女性をからかうのはそこまでにした。
「タクシーは全然捕まらないし、漫画喫茶も一杯だったんだ。行ったところで漫画を読む元気なんてないけどさ。そういえば、今ってどんな漫画が流行っているの?」
「……あんまり」
「嫌いなの? 今の子にしては珍しい」
「家に置くと取り上げられるの。図鑑とか、小説とか、そういうのを読めって」
男は、目の前の少女が肉親に複雑な感情を抱いているのが、なんとなく分かったような気がした。
今度は男がくしゃみをした。ツグミはティッシュをあてがうと、熱っぽさを感じた。
「風邪?」
「ああ、そうだったら嫌だな。さっきまでね、人の家の前で3時間ぐらい待っていたんだ」
「こんなに寒いのになんで?」
「夜回りに行けって言われて。夜回りって分かる? 偉い人の家に直接会いに言って、取材すること。新聞社で働いているんだ」
「ドラマで見たことあるよ。人が死んだところとか見るの?」
「いや、業界紙って分かるかな? 家に配られる新聞とは違って、コンビニだったり、銀行だったり、いろんな業界の最新情報を集めた新聞のこと。地味だけど特ダネをとって、取材した会社の株価が動いたら賞金がもらえるんだ」
「へえ」
男はもう一度くしゃみをした。ツグミは男を毛布で包んであげたいと思ったが、遠くの澤辺には声が掛けにくい。
「横になって休んでよ」
ツグミは膝に男の頭を載せたいと思った。だが、風邪が移ったらだめだからと言って男は彼女から距離を置いて横になっている。本当に何もしなくていいのか、何かできることはないのか、精いっぱい考えたけれども、ツグミの頭には浮かんでこない。
そうこうしているうちに1時間が経ち、目覚まし時計のアラームが鳴った。男は目を擦って起き上がり、ジャケットとコートを身に着けた。
(なんなら泊っていきます? 寒いでしょう。閉店間際だし、私も朝までここで仕事しますから。料金はお客さんが言った1時間半でいいですよ)
澤辺がそう口にしてくれたらいいなと思ったが、客を送り出そうとすでに玄関の前に立っているようだ。
「大人になったらデートしようね。お酒を飲んだり、ランチをしたり」
口任せの一言であっても、ツグミは嬉しかった。
(会えるかな?)
喉元に引っ掛かった言葉を伝えられないままでいると、男はカーテンの外に消えてしまった。
その夜、職場から車で10分ほど離れた住み込みのアパートに連れられたツグミは、割り当てられた1階の和室部屋に腰を下ろすとすぐに眠りに沈んだ。まるで1カ月間の出来事が1日で起きたような濃密な時間に精神と肉体は限界を迎えていた。
窓には鉄格子が付けられている。従業員の部屋の鍵を管理するのは澤辺の役目だった。
隣にはこのアパートに10年近く暮らすシズカの部屋がある。午前2時を回った頃、押し入れの方で物音がし、ツグミは目を覚ました。ふすまが揺れている。不審がって近づくと、押し入れにはシズカがいる。驚いて声を上げようとすると、唇を手で押さえつけられた。
ツグミは、シズカが自分の初めての相手になるのかと身構えたが、早計だった。
押し入れの奥の板には人が通れる穴が開いており、シズカの部屋とつながっていた。
無言でツグミの部屋にあるコートとカバンを奪うと、穴を指差し、自室に来るよう合図をした。
窮屈そうにするシズカよりも身体の小さいツグミは、易々と移動できた。
シズカは、香辛料の匂いが残る和室の畳を持ち上げ、壁に立て掛けると、下に潜って左に進めと手で伝える。覗くと穴がある。シズカに顔を向けると、姉が妹を諫めるような表情で、穴を潜って窓の外に出よと身振り手振りで訴える。
でも、とためらうツグミのすぐ目の前にある畳の際を、シズカは足で踏みつけた。ここはあなたが来る場所じゃない、そう訴えているのがようやく理解できた。
怖がらせてしまったと思ったのか、シズカは畳みの上にしゃがみ込み、足元にいたツグミの両頬を優しく撫でた。その手は乾燥していた。自分を射抜くような視線を受けながら、ツグミは姉の命令に従うことを決め、コートとカバンを受け取った。
雪はくるぶしあたりまで積もっていた。コートを着ているとはいえ靴がなく、足先の感覚が失われていった。すぐにコンビニエンスストアの明かりが近くに見えたのは幸いだった。アパートから至近距離にあったが、雪をかき分けて裸足で歩くのは困難を伴った。ツグミは1人で空を飛び回るには、自分は幼すぎるのだと痛感した。
コンビニに入ると、アルバイトの女性店員は客が裸足であることに驚き、何かあったのかと声を掛け、警察官を電話で呼び出した。ツグミはトイレを借り、コートをフックにかけ、貸与されたパジャマを脱ぎ、カバンのなかにしまった私服に着替えた。
店員は、二宮麻友の震える姿を気の毒に思い、事務室の椅子に彼女を座らせて、仮眠用の毛布を身体にかけ、コーンポタージュの缶を購入し彼女に与えた。
警官は女の身元を尋ねた。住所と氏名を名乗り、漫画喫茶で1泊を過ごそうとしたけれども満席で、雪のなかを歩いていたら転んで財布を落としてしまったと嘘をついた。警官はなぜ裸足なのか問いただした。麻友は、自分でもよくわからない、と答えるにとどめた。
二宮直子は始発の新幹線に乗り、午前8時に娘を保護する警察署に到着した。麻友の顔を見て、直子はその場で泣き崩れた。10分経っても立ち上がれず、医務室に運ばれた。母の持病に高血圧があるのを知る前のことだった。しばらくして落ち着きを取り戻した母はその場で、娘の言動にやや不可解な点があり、事件性がないとも言えないので、精神医学の専門家の診断を受けたほうがいいとアドバイスされた。
医務室から戻った母の目は腫れていた。再び麻友をみて、また泣き崩れそうになった。今度は何とか踏ん張って、麻友の身体に手を掛け、抱擁した。頬を打たれることを覚悟していた麻友はこの時、母に悪いことをしたということをようやく自覚した。
帰路に就く間、母は娘がどこで何をしていたのか、一切尋ねることはなかった。娘を失うことなく、麻友という名を口にできる喜びを噛みしめているようで、娘の手を常に握り、電車内の混雑ぶりや駅の構造の複雑さに素直に驚き、通路に構えるレストランや雑貨店の多さに舌を巻いた。高崎駅では上州牛の厚いステーキを娘にご馳走した。ナイフでステーキを切り分けながら、経営のことで頭が一杯になり父のいない麻友に深い愛情を示せずにいた自分の過ちを詫び、再び泣き崩れた。麻友は恥ずかしいからやめて、と言って、ペーパータオルを母の頬にあてがう。
この人の生殖細胞の核と、今は遠くにいる男の生殖細胞が合体し、私が生まれた。白い粘液。そう言えば、あんな場所にいても結局それを見る機会はなかった。
「お母さん、お父さんはお母さんが不倫して別れたわけじゃないんだよね」
涙にむせびながら、母は答えた。
「違うわ。約束する。本当に違う。お友達がそう言うの? その子は何て子?」
A山とH本、T田……。ただ彼女らが本当に自分にそう言ったのか、麻友は確信が持てないでいる。
「……疲れているから、変な考えも浮かぶんだと思う。しばらくゆっくりしなさい」
(お父さんとまた映画を見に行ってもいい?)
母に変な負担を掛けたくないと思い、麻友はその言葉を胸の内にしまい込んだ。
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