第14話 Here Good?

 二宮直子は県警の担当者から電話を受け、娘の麻友とよく似た私服の女性が高崎行きの電車に乗るのを駅員が目撃していたと知らされた。


 公衆トイレで、お嬢様が多いことで有名な学校の制服を清掃員が回収し、高崎駅の構内で、おそらく同一人物とみられる若い女性が切符を購入しているところを防犯カメラが記録に残していた。


 典型的な家出だと推測する県警に捜索願を出すべきか、娘の帰宅をもう少し待つべきか悩んでいた頃、二宮麻友ことツグミは個室マッサージ店「胡蝶」上石神井店の新人として店長の澤辺と対面している。


 身長はツグミよりも少し高いぐらいだが猫背で、何カ月もの間、散髪に行かなかったのか、前髪は鼻先まで垂れ、毛髪の隙間から覗いた鋭い目付きは男なのに魔女のようにみえた。上下とも黒のジャージ姿で、会った時には歯を磨いていた。ラガーマンは澤辺から小切手を受け取ると、今度は右手の拳をツグミにみせ、声に出さずファイトと口を動かして伝え、その場を去った。


 口をすすいで戻ってきた澤辺は、電話の置かれた小さな事務机の上にカバンを置くように指示した。言われた通りにカバンを置くと、澤辺は中を探り、財布を取り出すと、事務机のなかにしまって鍵を掛け、カバンを返した。それからツグミの体躯に目をやり、視線を上から下に伝わせた。


 「本当にやったことないんだな」

 「何をですか?」

 「決まっているだろう」


 ツグミは黙った。


 「事情は聞いたけど、この店に来る人間はロリータ趣味が多い。君みたいなガキをみて、何歳なのかと聞く奴がいると思うけど、その時は18歳の女のように18歳と答えること。いい? 演技がバレて日本人じゃないかと言われたら素直に白状していい。その方が客は安心すると思う。あと、やられそうになったらとにかく大声で叫ぶこと。怖いと感じたり、変態だと思ったりした時も。客を殴ったり蹴ったりしないこと。名前はなんだったっけ、ツグミ?」


 ツグミは首を縦にも横にも振ることができない。


 「まあいいや、給料は日払いで住居費は天引き。住むところは後に車で連れていくから」


 澤辺は、私物を持ってカーテンで仕切られた接客用の区画で待つようにツグミに指示すると、奥の控え部屋に向かい、シズカという名の女性を呼んだ。バスローブ姿で現れた女性の身長は澤辺よりも高く、ツグミよりもはるかに豊かな胸を持っていた。


 シズカはツグミを一瞥すると困惑したような表情を浮かべた。


 まず挨拶し、客にプラスチック製の洗濯籠を渡す。シズカの接客相手役の澤辺は、何千年もここで同じようなことをしていたかのように、衣服を脱ぎ始めた。ボクサーズパンツが脱ぎ捨てられた時、ツグミの胸は高鳴った。


 シャワールームに客を導き身体を洗う。喉も洗浄する。タオルで客の水気をとり、別のバスタオルを手渡す。ここまで5分ぐらい。客にうつ伏せになってもらい、本当に適当でいいから、肩と背中を指で押す。1分後に、チカラ加減ハ大丈夫デスカ、と聞く。シズカのやり方をしっかりみること。だいたい肩が片方5分ずつ。肩から腰までの間は、背骨の両側を両手で押して上から下まで行ったら下から上に戻って5分ぐらい。仰向けにさせて、太ももを右で3分ほど、左で5分揉む。左ももを揉みながら、玉が下がっているあたりを優しく手で包みこみ、相手の茎の具合と客の表情を確認する。利き手で茎を優しく握り、ゆっくりと小さく上下させる。下手だと言われないかと気にしないこと。下手な方が客がかえって興奮することもある。ブロージョブも同様だが極力歯が当たらないように気を付けること。相手の興奮度が高まったら口を離し、再び茎を握り上下させて、このままいけば射精。お前下手くそだな、いけないよこんなのじゃ。終わり終わり。慣れないうちは客の腹に出してティッシュで拭けばいい。その後は最初の反対。シャワーに行って洗って、籠を渡して服を着てもらって挨拶をする。


 以上。はいユアターン。


 ツグミは澤辺の命令に従い、作業手順の習得にあたった。背中のマッサージから仰向けにさせると、局部が露わになった。南国にある新種の魚介のようにみえた軟体は磯の香りがした。シズカの手付きの記憶を頼りに手を置き、とうとう自分はこちらの人間になったのだと自覚した。


 店の電話が鳴った。澤辺はツグミを払いのけ、全裸のまま立ち上がると、混雑状況の問い合わせに応じた。澤辺は電話横の目覚まし時計に目をやって首をかしげる。再び電話が鳴り、しばらくすると鳴りやまなくなった。


 《ユキ。デンシャすとっぷシタ》


 玄関で女が話すのが聞こえる。上石神井で足止めを食らった男性が、時間を潰せる場所を携帯電話で検索し、問い合わせているのだ。シズカはカーテンの外に出た。ツグミは1人になった。店内は中華の赤で統一されたデザインで、胡弓の調べが流れている。マットレスの横にはトルコグラスで飾られたランプがあり、相手の表情を確かめられる十分なを照度を確保していた。カーテン側にはティッシュボックスと屑入れがあり、壁側の引き出しにはバスタオルや透明の液体の入った調味料入れ、ティッシュボックスのストック、ビニル袋、爪切りなどが収まっていた。


 「ツグミ、爪を切って準備して」


 澤辺は電話の口を手でふさぎ、未経験のツグミに早速、接客に入るよう命令した。シズカは客の前では決してみせない冷めた顔で、カーテンを開けた。 


 「ヌイデ、ソコ、イレル」


 シズカは光沢のある黒のチャイナドレスをツグミに差し出すと背中を向けて去っていった。ツグミは再び1人になった。ニットとロングスカートを脱いで下着姿になった時、数分前に目の当たりにした男根の力強さを思い出した。胸が再び高鳴り、湿った部分を直したいと考えているうちに、カーテンの向こうから爪を切る音がした。ツグミは爪を切るように指示されていたのである。チャイナドレスに身を包み、薄暗い空間で爪切りを探すことにした。


 最初にツグミが接客したのは、足取りの覚束ない背の曲がった老人だった。昼に会った兄のような、快闊な男性と出会うのをどこかで期待していた。本数の少ない縮れた白髪と、口元から漂う黴臭さに直面した時、彼女は落胆の色を隠せなかった。老人はすまなそうな顔をした。


 仕事という現実に夢想は不要だ。30分コースをお願いした相手を、指定時間内に満足させればいい。


 「チカラカゲンハ、イカガ、デスカ」

 「いい、OKOK」


 老人を仰向けにして局部をみると、張力はなかった。太ももを摩る手を徐々に近づけても反応はない。それでも、風呂を浴びた後に実の孫に指圧を受けているような具合に、老人の表情は緩んでいた。しばらくすると、老人の表情がゆがみ、涙を流し始めた。ツグミは、触れられたくない部分に手を置いてしまったのではないかとたじろぎ、タイジョウブデスカ、と聞いた。老人は首を振り、ごめんごめん、とだけ言い、堰を切ったかのように泣き始めた。


 「しばらくしたらね、老人ホームに入るの。もう外は出られない。悲しいの、悲しい。わかる?」


 ツグミは老人の頭の下に自分の両太ももをあてがい、ティッシュで涙を拭いてあげた。怖くなったら叫べばいい。老人が果てることはなく、30分経ったことを目覚まし時計のアラームが伝えると、ありがとうと言い、ツグミの手をとって立ち上がり、相変わらず覚束ない足取りでカーテンの外に出た。


 シズカがカーテンの隙間から覗きこんできた。ソウジ、ゴミ、タオル。


 2人目の客をツグミに割り当てるのを、澤辺は一瞬ためらったが、まあいいと思い直した。一見スーツ姿のサラリーマンに見えるが、黒髪を七三に分けた小太りの男は、口から香辛料の匂いを漂わせ、片言の日本語と母語の北京語を話す。


 ツグミは自分が知っている簡単な英語を使うことにした。


 Here good?


 するとツグミの知らない言語で男は話かけようとする。澤辺が言う、日本人だということがバレそうになった時。それに該当しているのかもしれない。


 「ごめんなさい。わかりません」

 「ニホンジン?」


 男は怒り出し、ジェスチャーで脱いだ服を持って来いと要求した。着替えを終えると、テンチョーと言って外に出た。


 あっけにとられているツグミに対し、シズカはまた事務的にカーテンの隙間から、ソウジ、ゴミ、タオルと言う。玄関から激しい言い争いが聞こえた。ツグミは指導された通りのことをしたまでだが、客が外に出た後、澤辺はツグミの元に寄り、カーテンの隙間から、気を付けろと言った。


 ツグミの目から涙があふれた。


 澤辺はしばらくツグミに客を当てなかった。ツグミは泣きながら、澤辺の手元に財布があるのを悔やんだ。頭を下げて返却してもらい、籠の外に解放させてほしいと願った。


 雪は強まっている。カーテンを挟んだ両隣の女性の空間には、ツグミが休む間に男性が3人入れ替わった。しばらく経つと客の流入量を流出量が上回り、店内は落ち着きを取り戻していった。


 奥の方から内緒話をするようなかすかな声で女性同士が、何度もリィペェンレェンと発音するのが聞こえたが、その意味するところについて、ツグミには誰も聞く相手がいなかった。

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